現役女子大生 白石マーサが斬る!

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コメディと差別とリテラシーと。【ガキ使】【黒塗り・ブラックフェイス】騒動。

 

ある事柄や物事を見て何かを思う時、私たちは内容について語りがちだが、実際はその物事や受け取る私たちが置かれている"文脈"に左右されている事が多い。

 

私があの映画に救われたのも、出会った当時の私がドン底の状態だったからだし、 私が家族のドタバタコメディを見て笑っていられるのも、家族の中にあるゴタゴタの大変さを知っていて、且つ過去のものもとして受け入れられているからだし、あの古いロックバンドの音と詞が染みるのも、当時の社会情勢や作り手の生い立ち、そのバンドの音楽的立ち位置などを踏まえて価値を見出しているからであるし、私があのコンテンツを嫌うのはその内容というよりは、それを楽しんでいる(人間という意味での)人種が嫌いだからである。

私が当時ドン底じゃなかったら、あの映画に、というより映画そのものに見向きもしなかっただろうし、私が未だ家族の問題を抱えていて悩んでいる最中だったら、家族のドタバタコメディで笑えるはずもなく、それはトラジェディーとして私の目には映るだろうし、私が背景を知らずにあの音楽を聞いただけだったら、「あー悪くないな」程度の感想しか持ちえなかっただろうし、もしあのコンテンツを私が憧れている人が楽しんでいたなら、私も触れてみたいと思っただろう。また、こんな背景で生み出されたのですよとか教えられ、知ったのなら、「なんだそんな根深いものだったのか」と見る目が変わったかもしれない。

 

私たちはそれぞれの文脈で物事を見ているし、その文脈によって見え方というのは大きく変わってくる。

 

 

ゴミの山を現代アートの巨匠が六本木の森美術館にそれっぽい題名をつけて展示したら、それは社会問題を考えさせる芸術になるだろう。しかし、同じ六本木でもただ街中においていただけなのなら、東京でよくある見向きもされないただのゴミの山で、気になったとしても汚いなと思う程度にすぎないだろう。例え美術館にあったのと同じゴミの山でも、それが玄関先に置いてあったのなら嫌がらせだと思うかもしれない。し、仮に、ゴミ捨て場に死体遺棄された殺人事件の被害者家族宅の目の前にゴミの山が置かれたとしたら、それはめちゃくちゃホラーなわけである。

 

今回の「ガキの使い」の場合、どの文脈で黒塗りの浜田雅功を見るかによって、その印象は大きく変わってきているわけである。

これについての批判には、肌を黒くしたことを笑ったり黒人を笑い者にしてるのは低俗で差別主義的で、差別的な行動を助長しているだとかいう声があるし、擁護派には、ただ黒人俳優の真似をして、それを笑っているだけだという声もある。

 

しかし私はどうもどちらの言い分もしっくりいかないのだ。

 

浜田雅功が黒塗りで出てきたくだりは、あるひとつの文脈によって成り立っている。

このくだりは、毎回その年のテーマに合った衣装に着替えさせられたメンバーが次々と更衣室から出てくるが、どういう訳か浜田雅功だけ皆と違った格好をさせられているという文脈があって、そこが笑いどころなわけである。だから、女装させられていようが赤ん坊の格好をさせられていようが、むしろ他のメンバーと同じ格好であろうが、我々は「そうきたか!」という点におかしさを覚えるのであって、纏っている風貌が黒人であることに何らメッセージ性はない。

しかし、人権や差別という文脈から見ると、黒人以外の人間が顔を黒く染めるという行為自体、歴史的に見ても賞賛されるものでは無いと、問題になってくるわけだ。

リテラシーという言葉があるが、情報リテラシーというと、「情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のこと」とWikipedia先生には書かれている。おそらく擁護派は、バラエティは自由であるべきだとかいう考えを通すために今回の話題を持ち出しているのだろうし、批判派は差別撲滅という目的を果たすために今回の話題を利用しているにすぎない。

双方どうも議論が噛み合っていかないのは、それぞれの目的の為に、擁護派はバラエティとしての文脈の上でしか話さないし、批判派は人権問題の文脈でしか語らず、自分や相手がどの文脈にいるのか確認したり擦り合わせたりせずに進めるので、段々、日本は問題意識が足りない遅れてるだの、表現の自由を奪うだのという話になっていってしまう。

インターネットの難しさは恐らくそこで、1対1の直接的なコミュニケーションでは、その擦り合わせや絶妙なニュアンスを感じ取りながら発信することが出来るが、Twitterなどでは、自分のコミュニティで通用するニュアンスで書き記したものが、違う文脈の人間が言葉だけを切り取り引用し、コメントを付けたりするので、"クソリプ"になったり、時代遅れになったり、差別弾圧という名の差別がうんたらかんたら、という話になっていってしまう。いや、これが難しいのは一方向メディアであるテレビの方かもしれないという気もしてくる。

 

段々と批判の批判、みたいになってしまったが。

話を本題に戻すと、

黒人の真似をしてるのが面白くて笑っているわけではないから、これを差別だというのは非常にナンセンスである。

しかし、「顔を黒く染めること」でどういう印象を持つ人がいるのか、「顔を黒く染めること」にどういう歴史的背景があるのか制作側は誰も知らなかったのだろうか、ということはとても気になる。

私たちは、メディアにはお偉いさんの監視の目があって、不適切なものは自粛することがあるという事を知っている。それが、国民が望む情報や必要な事でも、圧力や"忖度"によって隠されてることがあるということを知っている。それにも関わらず、歴史的にも世界的にも問題視されている「顔を黒く染めること」をなぜ"忖度"しなかったのか。どういうスタンスで誤解される可能性のある表現を避けずに放送したのか。全く想定していなかったのか、想定した上で差別意図はないから放送したのか。そういう点については非常に気がかりなわけであるし、この表明する意図の内容によって騒動の終着点は変わってくるのだろうと見ている。

 

私たちは、文脈を読み取るリテラシーと意図するところを適切に表現するリテラシーリテラシーリテラシーしたリテラシーリテラシーすることが必要なのだ。リテラシー地獄である。それがどうやら現代という時代らしいのである。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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