現役女子大生 白石マーサが斬る!

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座間9遺体事件の本当の恐ろしさ(3)被害者と死ぬ死ぬ詐欺

 

ツイッターを開いて「ばっかじゃねぇの」とつぶやいた。

座間事件がツイッターを介して展開された事を踏まえ、防止策として規制を検討するという内容のツイートのリツイートリツイートしながらつぶやいた。因みに、このつぶやきは実際の音声を伴うつぶやきである。「その対応が本当に何かを解決してくれるのか?」とつぶやいたのが脳内での出来事であり、ツイッター上につぶやいたのは「まじかー」である。どうやら人の日常は、幾層ものつぶやきによって構成されているらしい。

 

現代社会における、新・3大"使い勝手めちゃ良きの言葉たち"というものがある。今私が作った。堂々の1位は「ヤバい」であるが、1位タイの位置に食らいついているのが「死にたい」である。「死にたい」のに必死に食らいついているなんて、生への欲動を感じさせてなかなかいい感じだ。

 

「死にたい」は万能だ。恐らく万能ネギより万能だ。私は万能ネギを彩りという一点においてしか使ったことがないが、とにかく「死にたい」はそれ以上に万能なのだ。私たちは日々、死へのハードルが下がっている。電車に乗り遅れても死にたくなるし、好きな芸能人に会っても死にたくなる。

そう考えると、仮にこの「死にたい」という言葉が規制されるということは、私たちの言語表現の豊かさを取り戻す良い機会になるかもしれない、と思ったりもする。自分の今の「死にたい」は一体何なのかを考えざるを得なくなる。そうすると、「電車乗り遅れた、死にたい」という所を、「電車に乗り遅れて私は落ち込んでいる。それは間に合わないという事実に対しても、間に合うと思って高を括っていた自分自身への落胆でもある。そして人との約束、自分自身との約束を果たせなかった自己への不信感、それは世界から私という存在を分断させるほどの…」………。なかなか面倒くさそうなヤツという印象を受ける文章になってしまった。と思ったがどういう訳か興味深い事にこのブログと同じような文体になってしまった。

 

この万能な「死にたい」という言葉だが、これを割りかしヘビーな意味合いで使っているにも関わらずいつまで経っても死なない人間の態度を"死ぬ死ぬ詐欺"と言うらしい。死なない度に生きるを選択できて良かったね、とならない辺り皆疲れてんだな、しょうもない飲み会で3000円ドブに捨てるんじゃなくて旨い肉でも食って寝ろよ、で解決させたい気持ちもあるがそういうわけにもいかない。そういう性分なのだ。

 

私はかつては、この"死ぬ死ぬ詐欺"をする人間が嫌いだった。しかし今は、"死ぬ死ぬ詐欺"をする人間を弾圧しようとする人間の方がよっぽど嫌いである。

これまでに述べてきたように、「死にたい」という言葉は万能だ。だが、万能すぎる故にその言葉の出どころの感情は曖昧なままになっている。それは受け取る方にも曖昧なまま届けられるし、発する方も深く考えずに表現できるが故に正確なところを本人すら知らないことが多い。

だから、死ぬ死ぬ詐欺をしている人は結果的に詐欺になっているのであり、本人の中に渦巻く様々な感情が手っ取り早いという理由で「死にたい」という言葉に集約されているだけだ、という事が殆どだと思われる。

 

「死にたい」は、「話を聞いてもらいたい」「認めてもらいたい」「救われたい」「寄り添ってもらいたい」などの気持ちの他に「生きたい」という意味合いをも含んでいる。

 

現に、今回の事件の被害者たちも、本当に死にたいと思っていた人たちはいなかったと言われている。しかし、苦しんでいたというのは紛れもない事実としてそこにあったのだろう。

そして、家族でも友人でも医療でも行政でもなく、見ず知らずの人間に助けを求めたわけである。

見ず知らずの人間に助けを求める事というのは、一見ハードルが高いように見えて、実際はその真逆である。もしそれで助けてもらえなくても、見捨てられても、心は本当のところでは痛くも痒くもないのだ。なぜなら、家族や友人、社会というその人が生きるメインとなる世界に見捨てられた時、その悲しみはそれこそ死に値する程の痛みを伴う。しかし、ネットや見ず知らずの人物というインスタントな世界で精神的な繋がりを求めて、それが叶わなくても、心はその世界ごと切り捨ててしまうことができるから、心は深く傷つかずに済む。もしそれが叶えば、自分が苦しみを抱く主な世界からの束の間の解放と、自分は他にも居場所があるのだというある種の優越感を得ることが出来る。

このご時世、ネットで知り合った見ず知らずの誰かに会うことはリスクを孕む行為だということを( 例え実感がなかったとしても)知らない人間はいないはずだ。しかし、そのリスクの裏側に、誰かにすがりたいという状況にある人間にとっての、絶好のメリットが存在するのである。

 

死ぬ死ぬ詐欺人間弾圧の民が一見優しいのは、「死にたい」と嘆く人にまずは手を差し伸べる所ではあるが、それはこちらから見ていると上辺の優しさなんじゃないかという気がしてくる。私が彼らを嫌うのは、死ぬ死ぬピーポーの言葉尻だけを受け取って、「時間も労力もかけてあげたのにアイツは本当に死ぬつもりも無かったし、また死にたいって言ってる。そんなに死にたいならさっさと死ねよ」と言い出すところだ。エゴの塊みたいな奴らだ。死ぬ死ぬピーポーも「死にたい」という便利な言葉に頼ってばかりいないで素直になれよ、「死にたい」というポップな言葉でパッケージ化される前の混沌とした気持ちを思い出せよ!と私の中の松岡修造がアツくなり、「来いよ、来いよ」と私の中の渡部篤郎が静かに煽りだしたくなる気持ちも無きにしも非ずなのだが、それが出来るくらい理性的であればそもそも「死にたい」という言葉が出てくるわけもないのだから人に「死ねよ」と言うだけのエネルギーがある人間はもう少し寛大でいてあげてもいいんじゃないかとも思う。

弾圧する人間は「人の時間をなんだと思ってるんだ」という言い分のようだ。が、お前がその時間をそいつに使ったのはお前が好きでやったことなはずだ。彼らが懸念してるのはその人が死ぬこと自体ではなく、これで断って死なれたら自分に罪悪感が一生降りかかってくるかも知れないという恐れだ。じゃなかったら、死にませんでした〜となっても「よかったね」で済むはずだ。しかし、怒り出すのは、自分の時間を無駄にされたという事自体に憤っているのではなく、自分の労力が報われなかったと自分が尊重されなかったことに憤っているわけである。つまり彼らが望んでいる真の目的は、死にたい人に手を差し伸べた結果「ありがとう、あなたのおかげで生きていけるわ」という言葉を貰うことであり、その人を本当に救い出すことではない。死ぬ死ぬ詐欺を許さないと逆ギレする人は、死ぬ死ぬ詐欺の人を自分の欲求を満たすために利用しているに過ぎない、というエゴが垣間見えるから嫌いだ。彼らが使っている優しさは、所詮条件付きの優しさであるにもかかわらず、こんなにも人の為に動いてあげたのに裏切られたという被害者ぶっているから嫌いなのだ。本当の優しさが無いくせに生半可な覚悟での人助けなんて辞めちまえ。自己犠牲をするだけの器量がないくせに自己犠牲の名を借りてエゴを満たそうとするな。自己犠牲を美徳とする風潮の罪がここにある。

人は何をしたって死ぬ時は死ぬ。

 

詐欺行為を見てムカつくというタイプの人間もいる。これはかつての私にも当てはまるが、みんな辛い中頑張ってんだから甘ったれんなということらしい。

思う分には大いに構わないと思う。死にたいのもそれにムカつくのも、それぞれの感情であり、感情には正誤もないし、誰に否定出来るものでもない。 

しかし、よくよく考えてみると、「みんな辛いのだから辛い時は死にたいと言わずに頑張る」のは、誰に強制された訳でもない。好きでやってる事だ。さっきの人助けの話にも繋がるが、好きでやってるはずのことを棚に上げてるにすぎない。つまりここでの「ムカつく」は「ずるい」ということになるのだが、誰もズルはしていない。みんな苦しんでる中弱音を吐かずに頑張らないといけない、そうしないと失格ですというルール、私の記憶では、ない。勝手にそうしてるだけだ。

 

時たま、タチの悪い人間もいて、そいつらの究極のセリフが、誰しも一度は聞いたことあるアレだ。

「世界にはもっと恵まれてない人がいるんだから、あなたの方が幸せよ」

あなたの痛みは甘えよということらしい。膝を擦りむいて痛がってる人に、「世の中には足のない人もいるのよ」と言ってるくらい見当違いも甚だしい。それにお前の基準では足のない人は不幸、ということになってるが、それはそれでだいぶ失礼だ。本当にデリカシーがない。

膝を擦りむいて痛みをグッと堪える人もいれば、歩けないと泣き喚く人もいる。痛みの感じ方と表現の仕方は人それぞれなのだ。

 

励ましの意味で言ってる人もいるらしい。「皆辛くても頑張ってるんだから一緒に頑張って行きまっショイ♪」ということらしいが、たぶん人生を部活の延長か何かだと思っている。私はそういうテンションを見ると激萎え〜なので、「先生、白石見学します」と挙手して体育館の隅で膝を抱えて座り込みたくなる。

 

あぁ、思い出した。私は中学の時、バスケ部の試合中、敵の足に引っかかって転んだ事があった。私は試合中だからと痛みを堪え立ち上がり走り出した。しかしその後、チームメイトが急に泣き出した。敵の腕が当たって目が痛い、見えない、だとかで、試合は中断、痛がるチームメイトは一同の同情を集め、敵チームからも謝罪を受けていた。数時間後、彼女は何事も無かったかのようにケロッとしていたが、私は何日経っても足の痛みが引かず、一ヶ月近くテーピング生活だった。その時、私は彼女にムカついていた。ずるいと思った。しかし別に試合中だから泣いてはいけないルールも、痛みを堪えて続行しなきゃ行けないルールもない。全部私が勝手にしたことだ。しかし、当時はそういう事ができる彼女に憎しみの篭った羨ましさを感じていたのだ。

 

どんな状況でも、そこに居るというのは、全て自らが選択した結果でしかない。

「忙しくて3時間しか寝てない、眠い」と言いながら今日も3時間しか寝ない自慢をしてるアイツも、「お腹空いた」といって食べないでお腹空いたと言い続けるアイツも、「仕事やめたい」というから「辞めてもいいんじゃない?」と言っても未だ辞めないあの子も、「死にたい」つっても死なない人に「死ね」と言ったところで、今ここに居るというのは(例えそれが消去法だったとしても)自らが好んで選び抜いた結果なのだ。

 

アメリカのスタンダップ・コメディアンにルイス・C・Kという人物がいる。彼のネタの中に、若者の自殺問題を取り上げ皮肉に切り込んだジョークがある。

「今日自殺しなかったくらいには人生が好きだ。ちょうどそれくらい。世の中なんて今日自殺しなかったひとばっかりだ」

 

どうやら私も、ちょうどそのくらい人生が好きみたいだ。