現役女子大生 白石マーサが斬る!

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座間9遺体事件の本当の恐ろしさ(3)被害者と死ぬ死ぬ詐欺

 

ツイッターを開いて「ばっかじゃねぇの」とつぶやいた。

座間事件がツイッターを介して展開された事を踏まえ、防止策として規制を検討するという内容のツイートのリツイートリツイートしながらつぶやいた。因みに、このつぶやきは実際の音声を伴うつぶやきである。「その対応が本当に何かを解決してくれるのか?」とつぶやいたのが脳内での出来事であり、ツイッター上につぶやいたのは「まじかー」である。どうやら人の日常は、幾層ものつぶやきによって構成されているらしい。

 

現代社会における、新・3大"使い勝手めちゃ良きの言葉たち"というものがある。今私が作った。堂々の1位は「ヤバい」であるが、1位タイの位置に食らいついているのが「死にたい」である。「死にたい」のに必死に食らいついているなんて、生への欲動を感じさせてなかなかいい感じだ。

 

「死にたい」は万能だ。恐らく万能ネギより万能だ。私は万能ネギを彩りという一点においてしか使ったことがないが、とにかく「死にたい」はそれ以上に万能なのだ。私たちは日々、死へのハードルが下がっている。電車に乗り遅れても死にたくなるし、好きな芸能人に会っても死にたくなる。

そう考えると、仮にこの「死にたい」という言葉が規制されるということは、私たちの言語表現の豊かさを取り戻す良い機会になるかもしれない、と思ったりもする。自分の今の「死にたい」は一体何なのかを考えざるを得なくなる。そうすると、「電車乗り遅れた、死にたい」という所を、「電車に乗り遅れて私は落ち込んでいる。それは間に合わないという事実に対しても、間に合うと思って高を括っていた自分自身への落胆でもある。そして人との約束、自分自身との約束を果たせなかった自己への不信感、それは世界から私という存在を分断させるほどの…」………。なかなか面倒くさそうなヤツという印象を受ける文章になってしまった。と思ったがどういう訳か興味深い事にこのブログと同じような文体になってしまった。

 

この万能な「死にたい」という言葉だが、これを割りかしヘビーな意味合いで使っているにも関わらずいつまで経っても死なない人間の態度を"死ぬ死ぬ詐欺"と言うらしい。死なない度に生きるを選択できて良かったね、とならない辺り皆疲れてんだな、しょうもない飲み会で3000円ドブに捨てるんじゃなくて旨い肉でも食って寝ろよ、で解決させたい気持ちもあるがそういうわけにもいかない。そういう性分なのだ。

 

私はかつては、この"死ぬ死ぬ詐欺"をする人間が嫌いだった。しかし今は、"死ぬ死ぬ詐欺"をする人間を弾圧しようとする人間の方がよっぽど嫌いである。

これまでに述べてきたように、「死にたい」という言葉は万能だ。だが、万能すぎる故にその言葉の出どころの感情は曖昧なままになっている。それは受け取る方にも曖昧なまま届けられるし、発する方も深く考えずに表現できるが故に正確なところを本人すら知らないことが多い。

だから、死ぬ死ぬ詐欺をしている人は結果的に詐欺になっているのであり、本人の中に渦巻く様々な感情が手っ取り早いという理由で「死にたい」という言葉に集約されているだけだ、という事が殆どだと思われる。

 

「死にたい」は、「話を聞いてもらいたい」「認めてもらいたい」「救われたい」「寄り添ってもらいたい」などの気持ちの他に「生きたい」という意味合いをも含んでいる。

 

現に、今回の事件の被害者たちも、本当に死にたいと思っていた人たちはいなかったと言われている。しかし、苦しんでいたというのは紛れもない事実としてそこにあったのだろう。

そして、家族でも友人でも医療でも行政でもなく、見ず知らずの人間に助けを求めたわけである。

見ず知らずの人間に助けを求める事というのは、一見ハードルが高いように見えて、実際はその真逆である。もしそれで助けてもらえなくても、見捨てられても、心は本当のところでは痛くも痒くもないのだ。なぜなら、家族や友人、社会というその人が生きるメインとなる世界に見捨てられた時、その悲しみはそれこそ死に値する程の痛みを伴う。しかし、ネットや見ず知らずの人物というインスタントな世界で精神的な繋がりを求めて、それが叶わなくても、心はその世界ごと切り捨ててしまうことができるから、心は深く傷つかずに済む。もしそれが叶えば、自分が苦しみを抱く主な世界からの束の間の解放と、自分は他にも居場所があるのだというある種の優越感を得ることが出来る。

このご時世、ネットで知り合った見ず知らずの誰かに会うことはリスクを孕む行為だということを( 例え実感がなかったとしても)知らない人間はいないはずだ。しかし、そのリスクの裏側に、誰かにすがりたいという状況にある人間にとっての、絶好のメリットが存在するのである。

 

死ぬ死ぬ詐欺人間弾圧の民が一見優しいのは、「死にたい」と嘆く人にまずは手を差し伸べる所ではあるが、それはこちらから見ていると上辺の優しさなんじゃないかという気がしてくる。私が彼らを嫌うのは、死ぬ死ぬピーポーの言葉尻だけを受け取って、「時間も労力もかけてあげたのにアイツは本当に死ぬつもりも無かったし、また死にたいって言ってる。そんなに死にたいならさっさと死ねよ」と言い出すところだ。エゴの塊みたいな奴らだ。死ぬ死ぬピーポーも「死にたい」という便利な言葉に頼ってばかりいないで素直になれよ、「死にたい」というポップな言葉でパッケージ化される前の混沌とした気持ちを思い出せよ!と私の中の松岡修造がアツくなり、「来いよ、来いよ」と私の中の渡部篤郎が静かに煽りだしたくなる気持ちも無きにしも非ずなのだが、それが出来るくらい理性的であればそもそも「死にたい」という言葉が出てくるわけもないのだから人に「死ねよ」と言うだけのエネルギーがある人間はもう少し寛大でいてあげてもいいんじゃないかとも思う。

弾圧する人間は「人の時間をなんだと思ってるんだ」という言い分のようだ。が、お前がその時間をそいつに使ったのはお前が好きでやったことなはずだ。彼らが懸念してるのはその人が死ぬこと自体ではなく、これで断って死なれたら自分に罪悪感が一生降りかかってくるかも知れないという恐れだ。じゃなかったら、死にませんでした〜となっても「よかったね」で済むはずだ。しかし、怒り出すのは、自分の時間を無駄にされたという事自体に憤っているのではなく、自分の労力が報われなかったと自分が尊重されなかったことに憤っているわけである。つまり彼らが望んでいる真の目的は、死にたい人に手を差し伸べた結果「ありがとう、あなたのおかげで生きていけるわ」という言葉を貰うことであり、その人を本当に救い出すことではない。死ぬ死ぬ詐欺を許さないと逆ギレする人は、死ぬ死ぬ詐欺の人を自分の欲求を満たすために利用しているに過ぎない、というエゴが垣間見えるから嫌いだ。彼らが使っている優しさは、所詮条件付きの優しさであるにもかかわらず、こんなにも人の為に動いてあげたのに裏切られたという被害者ぶっているから嫌いなのだ。本当の優しさが無いくせに生半可な覚悟での人助けなんて辞めちまえ。自己犠牲をするだけの器量がないくせに自己犠牲の名を借りてエゴを満たそうとするな。自己犠牲を美徳とする風潮の罪がここにある。

人は何をしたって死ぬ時は死ぬ。

 

詐欺行為を見てムカつくというタイプの人間もいる。これはかつての私にも当てはまるが、みんな辛い中頑張ってんだから甘ったれんなということらしい。

思う分には大いに構わないと思う。死にたいのもそれにムカつくのも、それぞれの感情であり、感情には正誤もないし、誰に否定出来るものでもない。 

しかし、よくよく考えてみると、「みんな辛いのだから辛い時は死にたいと言わずに頑張る」のは、誰に強制された訳でもない。好きでやってる事だ。さっきの人助けの話にも繋がるが、好きでやってるはずのことを棚に上げてるにすぎない。つまりここでの「ムカつく」は「ずるい」ということになるのだが、誰もズルはしていない。みんな苦しんでる中弱音を吐かずに頑張らないといけない、そうしないと失格ですというルール、私の記憶では、ない。勝手にそうしてるだけだ。

 

時たま、タチの悪い人間もいて、そいつらの究極のセリフが、誰しも一度は聞いたことあるアレだ。

「世界にはもっと恵まれてない人がいるんだから、あなたの方が幸せよ」

あなたの痛みは甘えよということらしい。膝を擦りむいて痛がってる人に、「世の中には足のない人もいるのよ」と言ってるくらい見当違いも甚だしい。それにお前の基準では足のない人は不幸、ということになってるが、それはそれでだいぶ失礼だ。本当にデリカシーがない。

膝を擦りむいて痛みをグッと堪える人もいれば、歩けないと泣き喚く人もいる。痛みの感じ方と表現の仕方は人それぞれなのだ。

 

励ましの意味で言ってる人もいるらしい。「皆辛くても頑張ってるんだから一緒に頑張って行きまっショイ♪」ということらしいが、たぶん人生を部活の延長か何かだと思っている。私はそういうテンションを見ると激萎え〜なので、「先生、白石見学します」と挙手して体育館の隅で膝を抱えて座り込みたくなる。

 

あぁ、思い出した。私は中学の時、バスケ部の試合中、敵の足に引っかかって転んだ事があった。私は試合中だからと痛みを堪え立ち上がり走り出した。しかしその後、チームメイトが急に泣き出した。敵の腕が当たって目が痛い、見えない、だとかで、試合は中断、痛がるチームメイトは一同の同情を集め、敵チームからも謝罪を受けていた。数時間後、彼女は何事も無かったかのようにケロッとしていたが、私は何日経っても足の痛みが引かず、一ヶ月近くテーピング生活だった。その時、私は彼女にムカついていた。ずるいと思った。しかし別に試合中だから泣いてはいけないルールも、痛みを堪えて続行しなきゃ行けないルールもない。全部私が勝手にしたことだ。しかし、当時はそういう事ができる彼女に憎しみの篭った羨ましさを感じていたのだ。

 

どんな状況でも、そこに居るというのは、全て自らが選択した結果でしかない。

「忙しくて3時間しか寝てない、眠い」と言いながら今日も3時間しか寝ない自慢をしてるアイツも、「お腹空いた」といって食べないでお腹空いたと言い続けるアイツも、「仕事やめたい」というから「辞めてもいいんじゃない?」と言っても未だ辞めないあの子も、「死にたい」つっても死なない人に「死ね」と言ったところで、今ここに居るというのは(例えそれが消去法だったとしても)自らが好んで選び抜いた結果なのだ。

 

アメリカのスタンダップ・コメディアンにルイス・C・Kという人物がいる。彼のネタの中に、若者の自殺問題を取り上げ皮肉に切り込んだジョークがある。

「今日自殺しなかったくらいには人生が好きだ。ちょうどそれくらい。世の中なんて今日自殺しなかったひとばっかりだ」

 

どうやら私も、ちょうどそのくらい人生が好きみたいだ。

 

座間9遺体事件の本当の恐ろしさ(2) 白石容疑者について

 

狂気を異常なモノとして切り捨てたり、社会の歪みだとして無理矢理修正しようとしたところで、何の解決にもならない。

こういう事件が起きる度に、狂気の元凶を見ようとしないですぐに排除したがる人間を見るといつも言ってやりたくなる。

「お前、何怖がってんの?」

そういう奴は決まって、こんな近くにこんな恐ろしい奴がいるんだもの怖いに決まってるわ、なんて抜かすのだろう。

違うだろ、お前が恐れてんのは。

たまたま表出してきた"外"にある狂気や歪みを切り捨てたところで、お前を含む人間が、そのお前を含む人間が生きている世界の狂気が、無かったことになる訳じゃない。何を今更恐れてるというのだ。元々ある狂気を無意識下に押し込め、無かった振りをしているだけで、そこには確かにある。押し込めている理性なんてたかが知れてる、ということを我々はどことなく知っている。それを証明するかのように、狂気を目の当たりにして無意識的にヤバいと思ってるのがお前なのだろう。だからそんなに騒ぐのだろう、と思わずにはいられない。確信に迫る図星を突き付けられて慌てて口数が多くなってるペテン師みたいになってんぞ。

そういう奴らはそんなことを言っておきながら、こういった事件の犯人に自らの狂気をも託し、犯人を処理することで、託した狂気も一緒に処理したつもりになっている。犯人という狂気を抑圧することで自らの狂気も抑圧する。そういう儀式みたいな、祭りみたいなものだなと、見ていて思う。

 

容疑者について考えてみる。

 

未だ白石容疑者の供述は2転3転しており、事件の全貌を把握するのは長期間かかりそうだと言われている。

しかし、私は何ら不思議には思わない。何故なら、彼自身すら「分かっていない」のだ、と私はみているからだ。彼自身もなぜ自殺願望を抱き、なぜ他殺へと至ったのか分かっていないのではないか。そしてそもそも、その"何故"が分かっていれば、今回のような事件は起きなかったのではないかと考えている。

 

容疑者の供述では、金銭目的だったとか暴行目的だったとか、たぶんアニメが好きだったかも知れませんとか、言われている。臓器密売じゃないかという憶測も飛んでいる。が、もしそういう動機の犯行だったら、供述をコロコロ変えず計画段階からそこまで作りこんでいたはずだ。金銭目的にしろ、効率が悪すぎる。

私はどうも腑に落ちないのである。

 おかしな話だが、まだ、「人助けがしたかった」とか「望みを叶えてやったんだから感謝されるべきだ」とか言ってくれた方がこちらとしても納得できるってものだ。

 

そういった視点から見てみると、一見よくある猟奇殺人事件の類にも見えるこの事件から、それらとは違った生々しさが漂ってくる。

このニュースを初めて聞いた時、私は、私の知るシリアルキラーのイメージが頭に浮かんだ。殺す事が快感で、自分の殺害手口に誇りを持ち、注目される事で英雄の様な感覚に陥り、全てを意気揚々と語る。もしくはなんてこと無さそうに淡々と振る舞う。

しかし、報道のカメラに映った白石容疑者は、顔を隠す。大抵の猟奇殺人犯は注目を浴びることは何ら気にしないと言うが、彼はぐっと顔を押さえている。

彼の育ってきた環境も、両親の別居問題はあれど、近所でも普通の評判の父親と共に生活しており、学生時代は特段目立たずとも真面目だったという。

大抵の猟奇殺人にまで至るようなサイコパス性を孕んだ人物というのは(もちろん生まれ持った性質というのもあるかもしれないが)、幼少期の虐待などの過酷な生育環境とセットで語られる事が多いが、今回は私の知る限りそういった情報は出ていない。

 

にも関わらず、彼は苦しみを抱えていた。

彼は当初、彼自身が自殺願望を抱えていたという。しかし、第3者が理解できるような自殺願望に至る理由は分からない。そして、彼自身も分かっていないのだ。

ここから、普遍的な事象が抽出されてくる。

何が理由か分からないけれど死んでしまいたいほど苦しみ。これは、現代が抱える心身症みたいなもので、ある種、近代以降に生きる我々にとって普遍性を持っているといえる。

 

そもそも人が死にたいと思う時、人は「わからない」という状況に立たされているように思う。頑張る理由が分からない、私という人間が分からない、生きている意味が分からない、自分が苦しんでいる理由すらも分からない。そこにあるのは、ただ、ずんとのしかかる苦しみと、死んだら解放されるのだろうか、という僅かで微かな憶測だけである。そして、それが内に向かうか、外に向かうかの違いだけである。内に向かった場合、自傷することで苦しみを可視化し束の間の安心を得るとか、最悪の場合自死に至り、外に向かった場合、それは狂気となり表出してくる。

この狂気は、人間に一見理解し難い行動をとらせる。

映画作品で例を挙げるならば、『アメリカンビューティー』『ファイトクラブ』『マルコヴィッチの穴』などが、これらの狂気を描いているといえる。これらの作品は、近代化以降、理性でしか説明のつかない世界で生きる我々が抱く「不全感」という苦しみを取り扱っている。そして、殴り合うこと(ファイトクラブ)や、人の頭の中に入り込むこと(マルコヴィッチの穴)など、一見理解し難い狂気とも取れる行動を通して、意味付け出来ないものに触れようとし、「不全感」を克服しようとする。意味というのは理性の領域のものだ。似たような苦しみに「欠落感」があるが、これは足りないものが明確でわかりやすい。金が無いだとか、恋人がいないだとか、苦しみの要因となる欠けているものが明確で、どうすればそれが満たされるかも検討がつくし、他者から見ても自分自身も納得しやすい。だから、我々は銀行強盗の映画も、愛ゆえに犯した殺人の物語も、理解し、共感することができる。

しかし、「不全感」という感覚も確かに存在する。その証拠に、先に挙げたこれらの作品は映画界にセンセーショナルを巻き起こし、名作の仲間入りを果たしている。これだけ支持されているのに理由が無いわけがない。

 

つまり、白石容疑者が抱いていた自殺願望というのはこの「不全感」から来るものなのではないだろうかと私は考えるのだ。

 

では何故、彼の自殺願望は他殺へと向かったのか。それはコントロールの感覚と関係があるように思う。

人はコントロール出来ない物事に出くわした時、苦しむ。

人間関係も仕事も、人が悩み苦しむ時、自分が思う理想と目の前の事象にギャップが生じている状況を、すぐに自分でコントロール出来ないから苦しむ。

しかし、人間関係や仕事などの具体的な事象の場合、可能性がある。私とAの関係を良好にする場合、また仕事を上手くこなしたいと思う場合、アプローチの仕方を変えてみるとか、自分の考え方を変えてみるとか、周りの人を巻き込んでみるとか、環境を変えてみるとか、自分で自分や状況をコントロールできる余地がある。

しかし、これらは全て、私という存在が存在していいのだという、自分と世界への信頼と確信が前提になっている。この信頼と確信が失われ、その喪失の具体的な理由がわからない時、人は死というものを考えるわけである。そうなると、状況のみならず、自分自身すらコントロール出来ない、というもどかしさと無力感に苛まれる。

しかし、自己のコントロール、すなわち己を支配しているという感覚すらない状況で、人の生死という世界で最大の事象をコントロールする感覚。人の命を支配する感覚。それが彼を延命措置のように生かしていたのではないか。

 

私はそう、この事件における白石容疑者という人物から普遍的な人間の狂気を見ている。

 

 

 

 

 

 

 

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座間9遺体事件の本当の恐ろしさ(1)

 

猟奇的だといって容疑者に焦点が当てられている。TVで取り沙汰されるのは、そして人々が気にしているのは、死体と一緒に生活していたなんて常軌を逸しているだとか、インターネット・SNSの怖さだとか、そういった事だ。

人はどうやら"目新しいが知っているモノ・コト"が好きらしい。

犯人はおかしいとか、インターネットは怖いとか、そうした話題はこの手の事件が起きる度に、根本的解決や議論をするつもりもない人間によって、わーわーびゃーびゃー騒がれてきた。新しいサスペンス映画の予告を見てヤバそうとか騒ぐけど結局実際に足を運ぶつもりはない、みたいな人たちだ。えぇ、偏見ですとも。(ただし正確には"この手の事件"と今回の事件には違いがあると私は思っているのだが、それについては後に述べようと思う)

テレビでも、それを見たコメントでも、何のために、目的は何だったのか、が皆気になるらしい。それからどうやっての部分。どうやって死体を保管していたのか、どうやって処理していたのかという事。それ知ってどうすんの?サスペンス映画の脚本でも書くの?やめといた方がいいよ、みんな予告だけ見て騒いで結局劇場には行かないんだから。えぇ、余談ですとも。

 

私が気になって仕方ないのは、whatでもhowでもなく、whyである。

なぜ犯人はこの行動をとり、なぜ被害者は被害者にならなくては行けなかったのか。

この"なぜ"を、犯人がヤバイ人間だったから、いやそもそもこんなん人間じゃなくね、全然理解できない、サイコパスだから仕方ない、で片付けてしまっていいのだろうか。このなぜを、インターネットは危険ですよ、知らない人には会っちゃダメですよ(ねぇねぇ待ってくださいよ、私の周りにいる"リアル"で会った人たちも、初めは皆"知らない人"だったんですけども?)、自分の身は自分で守りましょうね、現代社会のテクノロジーが産んだ闇ですね、で片付けてしまっていいのだろうか。

これらを取り除いたところで、この事件が起こった要因の解決には、なんらなる訳がない、と、私は強く思うのである。

 

続く

 

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衆議院選挙、投票を前に。

 

2017年10月20日(金)19:43

私は未だ、戸惑いの中にいた。

 

今まで誇りに思っていたご自慢のモノが、実はかつての勝負で負けたペナルティとして去勢されていて、それを素晴らしいモノなのだと調教され、喜んで見せびらかしていただけだったのかもしれない。自分で見つけ出し、勝ち取ったと思っていた金のメダルが、実はそう思い込むように仕組まれただけのコインチョコだったのかもしれない、と疑念をぶつけられているような、そんな戸惑いである。

 

夏になると戦争という過ちを憂い、しかし、今の日本には素晴らしいモノがある、と平和憲法を讃える。物心ついた時には、そういったテレビ番組や授業や映画に囲まれていて、平和憲法は日本人としての無意識にのみならず、アイデンティティとして私の中に刷り込まれていた。

だから、憲法改正なんて唱える人物は、なんて野蛮で好戦的なのだろうと、憲法は守られるべきだと盲目的に、それがあたかも本当に自らが導き出した意見かのように、胸高々に宣言してきたわけである。

 

しかし、そのアイデンティティが崩れようとしている。言わば再構築の時期にあるのだなと、自らを思う。

 

この歳になって初めて、柄谷行人江藤淳の著書の一節を読んだ。これによって私の盲信は打ち砕かれ、初めて自分の眼で見る世界に投げ込まれたかのような感覚とある種の目眩に陥った。

そして私が、憲法は何がなんでも護られるべきだと盲目的にしがみついてきたのは、本当に憲法のことを考え尽くしたからではなく、ただ何か今の均衡のとれた生活を失うかもしれないという恐れ、それのみならず、あの憲法が変わってしまったら、今まで信じてきたアイデンティティの否定に繋がってしまうかもしれないという恐怖と弱さから来る焦りだったのかもしれない。

 

そう考えると、これは、例えば親子関係における、依存から自立へのプロセスに近いところがありそうだ、なんてことも思ったりする。

私は、憲法という"親"から距離をおいて見つめることで、クリアに自分と世界を見つめ、初めて、自らの眼を通して入れ込んだ情報を自分のアタマで考えることになるのだ、と。その上で、新しい価値観を構築していくのか、それとも"親"の価値観を愛していくのか、そのどちらもなのか、どちらでもないのか、選択していくことになるのだろう。

 

そんな戸惑いの中、住民票も移しておらず、不在者投票の手続きも間に合わなかった詰めの甘い私は、往復4時間3000円をかけ、あの一瞬の為に、寒さ際立つ地元の最寄り駅に降り立ったというわけである。

 

 

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女の嫌いな女

世の中には、「女の癇に障る女」というものがいる。確かに気に入る気に入らないというのは個人差のあるものだから、「"私"の癇に障る女」という表現の方が適切にも思われる。しかし、どこかしっくりいかない。"私"全体というより"私の中の女"の癇に障っているのであり、そういう女っていう奴は世の中に腐るほどいる。

 

(ちなみに"私の中の男" "女の中の男"というのもいて、そいつは電車の中でピタッとしたタイトスカートを履いたグラマラスなお姉さんのお尻を「いいケツしてんな、たまんねぇな」とガン見で追いかけてたりする。"私の中の男"は女の皮を被ってる事をいいことに、視線をぶつけるのに躊躇いがないのだ。町で、電車で魅力的な肉体をした女性が歩いている時、彼女をじっと視線で追いかけているのは女の方だったりするから確認してみると面白いかもしれない)

 

話を戻して。

何故そんな"女の嫌いな女"たちが世に蔓延っているのかというと、そういうある種のイメージに沿った女になることは、世の中をイージーモードで進んでいけるという刷り込みによるものだと思う。

 

だから、半年、いや3ヶ月に1回くらいのペースで私はテレビに向かって、「また出やがったなクソ女!」と叫ぶハメになる。

プロだかアマチュアだかわからないネットアイドルが日々生産されるツイッターを映し出すスマホ画面にいたっては、毎日のように叫びすぎて、「ま」という文字を思い浮かべたら、脳内の入力候補一覧の1番上には真っ先に「また出やがったなクソ女!」というパンチラインが出現するわけである。

 ネットアイドルモドキよ、ピースサインの指をふにゃっとさせるな。力を入れてピンと伸ばせ。母親世代のピースを見習え。

 

だいたいテレビには、3ヶ月か半年くらいの周期で、新人の女優だかアイドルだかグラビア上がりだか歌手志望のタレントだかモデルだか、素性のわからない女が、白とかパステルカラーの服を着て我が物顔で座っている。お前は誰だ。

しかし、テレビの中で可愛い可愛い言うもんだから、それを見た男どもはそいつを可愛い女だと言い始め、それを聞いた女は「あぁ、あの子みたいになれば私も可愛くなれるんだ」と思い込み、時代時代で量産型の見た目の女が増えていく。

だいたいテレビの中のあの女が可愛いと言われるのは、その控えめな反応が彼女の控えめな性格から来ているわけではなくて、単純にテレビに出るパフォーマーとしての力量不足故に、司会の芸人が「かわいい」って言っておけば場が白けずに済むって事を知っているから言っているんだぞ。

だいたい、本当に控えめなヤツが、自分の可愛さを自覚して、メディアや世の中に出てくるわけがないだろ。

 

具体的に名前を挙げたらキリがないが、彼女らのしたたかさが滲み出ているのに、本気で可愛いと思ってるヤツの気が知れない。特に女。「可愛いと思ってる私可愛い」とでも思っているのだろうか。だとしたら、そいつもかなりしたたかだ。

 

要は私、したたかな女、嫌い。

 

 

 

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官僚?マスコミ?今の日本のホントの黒幕

 

勧善懲悪モノの映画にはお決まりのパターンというものがある。 

まず分かりやすいのが、善に価する主人公が悪である敵をとっ捕まえ、やっつけて、民衆のヒーローになる、というものだ。実にわかりやすい。観る人はそんな分かりやすい世界の前提によって、安心してハラハラドキドキ出来るわけである。

この時の敵というのは、大抵如何にも"悪"という顔をしている。悪であるのが誇らしいかのように悪行を世の中に見せつけ、悪人顔をし、悪を想起させるようなコスチュームを身に纏い、悪の演説をする。この徹底ぶりに観客の方も思わず応援したくなってしまったりする。悪い事も、「俺は悪人だー!」と突き通されてしまうと、次第に好感すら持ててしまうのだ。自分の信念を貫き、それに関しては他人にも自分にもウソはつかず、正々堂々としていて、ヒーローにボコボコにされても立ち上がる。その姿はヒーローにある格好良さと似た所を感じるわけである。

するとどうだろう。話の本質は、相反する2つの価値観の対立となる。物語の決着は大抵、世の中の気分や通説的な正しさや作り手の世界への見方などが決定するわけだが、両者の態度は同じようにブレないので、ちゃんと2つの意見の本質的な闘いとなるのだ。

 

しかし、厄介なパターンというものもある。

この場合の敵も最初は一見如何にも"悪"という顔をしているし、やはり民衆からは目に付くキャラクターである。しかし、サポート役として相棒と呼ぶには上下関係が著しい下僕みたいなキャラクターがいる。一見人が良く、故にボスである悪者にこき使われている。

物語が進むと、然るべきタイミングで事件が起こる。その犯人は悪人顔をしているあの悪者で、ヒーローはそいつの悪行を止めるべく戦いに出る。例のごとくヒーローは悪者を仕留め、民衆はこれで平和で生きやすい世界になるのだと歓喜する。

しかし、エンドロール直前、観客である我々は驚愕の事実を知らされる。また同じような事件が起ころうとしている。悪者を倒したのになぜ?なんと、真の黒幕はあの人の良さそうな下っ端キャラだったのだ!いつもペコペコしていたはずのあのキャラクターと、スクリーンを見ている私たちは目が合う。人が良さそうだったあの笑顔から一変、ニヤリと意味ありげに笑うと画面に文字が出る。「to be continued」

 

ここで観ている方としては「胸熱ーーー!」となるわけだが、頭の良いヒーローなら勘づいていたとしても、歓喜だけして後はお任せ状態の民衆はその後深く考えるわけもなく、またディザスターに巻き込まれるわけである。そしてまた問題が起こっても、目立つし叩きたくなる表面上の悪者役のキャラクターを見つけ出し、叩き、いなくなってまた喜ぶ。しかし真の悪玉の存在には気づいていないから to be continued。

 

今、日本では、このto be continued状態に陥っているのではないだろうか。そう考えると、私のこれまでの疑問の解決の糸口が見えるような気がするのだ。

自民党から民主党にかわりまた自民党になりそれもダメかもしれない、となっている今、同じ事の繰り返しなのではないかと不安になる今、もう少し一歩新しい視点を取り入れるべきなのだ。

最近聞かれる話やニュースは、政治的思想だったりの意味のぶつかり合いというのではない印象を受ける。

政治家は良くも悪くも目立つし、なんかみんな意地悪そうに見えるし、ウソつきで不祥事だらけで、というイメージがあるから叩いて潰れたら喜んでしまいがちだが、それを見えない所でしめしめと思っている存在は本当にいないのだろうか。官僚とかマスコミとか、そういった人らの動きを私を含めた民衆は本当に知っているだろうか。

 

授業で佐藤優の『官僚階級論』の一部分を読んだ。そこには「官僚は、みずからの延命のために国民から税を徴収する階級である。(中略)どんな職種の官僚であれ、官僚は自分の業務が、国民にとって不可欠であり、もっと大きな資源配分(税の徴収と投入)を受けるべきだと考えている。職種は違っても、自身の業務を正当化する理屈の根幹にあるのが「公のため」「国益のため」であることに変わりはない。」と書いてあった。そして、官僚の習性そのものが悪いというのではない、とした上で、「究極には、官僚にとってみずからの延命が図れるのであれば、国家の理念または国民の生命や安全などの二の次のことである。」と続けている。

これに対して、私たちは真っ向から否定出来るだろうか。税金が取られることを嘆き、増税を不当だと反対する声が多く聞かれるその声自体が、全てを語っているのではないか。目に、鼻に付く"悪"をおもしろおかしく叩くのは本当に私たちの批判的思考から出てきたものなのだろうか。

 

まず我々は、ニヤリと笑って見せているその存在がないか疑い、気づくことが大切なのではないだろうか。そう思わずにはいられないのである。

 

 

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優しくない人

 

日本が世界に誇る(らしい)大映画監督、小津安二郎の名作『東京物語』のクライマックスで、紀子というキャラクターが涙を流す。

「私は皆さんが思ってらっしゃるほど優しい人間じゃないですわ」「私、ずるいんです」

それを見た私は、すぐさま脳内の小粋なカフェに紀子を連れ込み、「え、その感じめっちゃわかる〜〜〜!」と、さも友人と語り合うかのようにガールズトークを繰り広げたい気分だった。

 

紀子は、平山家に嫁ぐが、夫は戦死してしまう。地方に住む義父・義母は子供たちに会うため東京に出てくるが、当の子供たちは、そんな両親を面倒くさがって雑に扱う。そんな中、唯一親切に対応していたのが、嫁である紀子であった。

義父・義母は地方に帰る時、「他人のあんたの方がよっぽど良くしてくれた。死んだ夫の事はどうか忘れて、あんたには幸せになってもらいたい」と紀子に告げる。その後の紀子のセリフが、上記の言葉であった。

 

紀子の本心はこうだった。

夫が戦死した事での孤独。そして疎外感。それらを必死に埋める為に、"出来すぎた嫁"を演じる事で、自分の存在意義を言い聞かせる。そのための親切心と優しさだった。どうやら自己欺瞞要素があるらしかった。

 

「私もね、似たような感じあるねん」とエセ関西弁を交えつつ、今度は私の話を紀子に聞いてもらうことにした。

 

私はどういうわけか、よく「優しいね」とか「意外と心広いよね」とか言って貰えることが多々ある。しかし、どうも素直に受け止められない。何なら私の本当のところを見透かされているような気がして、警戒してしまうことすらある。

優しさに関して言えば、嫌われる事への恐怖とか、人に良い気持ちになってもらいたいとか、自分のエゴから来るものなんだろうなというのは、自分の中では明白で、それについてはもう正直、そういう事なんです、と開き直りの境地に至っているのでここでは触れない。(申し訳ない、と一応何かに謝っておく)

 

人が私に「心広いね」という時、たいてい私の交友関係を見て言うらしかった。

私の友人には実に様々なタイプがいると思う。"まとも"に生きている奴もいれば、親には反対されてるんだよね…と言いながら腕に"罪"という文字の墨を入れた奴、学校に来ないなぁと思ってたらSMクラブのバイトを初めていた、なんて奴もいて、挙げればキリがない。

自分としてはいずれとしても大好きな奴らだから、毎度私はよく話を聞き、彼ら彼女らが私にしてくれたように、私もまた、彼ら彼女らを受け入れてきたつもりだ。

 

しかし、よくよく考えてみると、これも明らかに自分の為なのではないかという気がしてくる。

自分のどこかにある欲望。それを彼らは体現していて、そういう要素のある人と無意識的に仲良くなり、自分の人生に取り入れているのではないか。彼らを通して、自分がしたくても出来ない世界を覗き、自分もした気になっているのではないか。

そして彼らを受け入れることで間接的に、自分の見てはいけないと思ってた部分をしかと見つめ、受け入れようとしているのではないか、と。

 

心の広い、優しい人間になりたいものである。 

 

 

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