現役女子大生 白石マーサが斬る!

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女の嫌いな女

世の中には、「女の癇に障る女」というものがいる。確かに気に入る気に入らないというのは個人差のあるものだから、「"私"の癇に障る女」という表現の方が適切にも思われる。しかし、どこかしっくりいかない。"私"全体というより"私の中の女"の癇に障っているのであり、そういう女っていう奴は世の中に腐るほどいる。

 

(ちなみに"私の中の男" "女の中の男"というのもいて、そいつは電車の中でピタッとしたタイトスカートを履いたグラマラスなお姉さんのお尻を「いいケツしてんな、たまんねぇな」とガン見で追いかけてたりする。"私の中の男"は女の皮を被ってる事をいいことに、視線をぶつけるのに躊躇いがないのだ。町で、電車で魅力的な肉体をした女性が歩いている時、彼女をじっと視線で追いかけているのは女の方だったりするから確認してみると面白いかもしれない)

 

話を戻して。

何故そんな"女の嫌いな女"たちが世に蔓延っているのかというと、そういうある種のイメージに沿った女になることは、世の中をイージーモードで進んでいけるという刷り込みによるものだと思う。

 

だから、半年、いや3ヶ月に1回くらいのペースで私はテレビに向かって、「また出やがったなクソ女!」と叫ぶハメになる。

プロだかアマチュアだかわからないネットアイドルが日々生産されるツイッターを映し出すスマホ画面にいたっては、毎日のように叫びすぎて、「ま」という文字を思い浮かべたら、脳内の入力候補一覧の1番上には真っ先に「また出やがったなクソ女!」というパンチラインが出現するわけである。

 ネットアイドルモドキよ、ピースサインの指をふにゃっとさせるな。力を入れてピンと伸ばせ。母親世代のピースを見習え。

 

だいたいテレビには、3ヶ月か半年くらいの周期で、新人の女優だかアイドルだかグラビア上がりだか歌手志望のタレントだかモデルだか、素性のわからない女が、白とかパステルカラーの服を着て我が物顔で座っている。お前は誰だ。

しかし、テレビの中で可愛い可愛い言うもんだから、それを見た男どもはそいつを可愛い女だと言い始め、それを聞いた女は「あぁ、あの子みたいになれば私も可愛くなれるんだ」と思い込み、時代時代で量産型の見た目の女が増えていく。

だいたいテレビの中のあの女が可愛いと言われるのは、その控えめな反応が彼女の控えめな性格から来ているわけではなくて、単純にテレビに出るパフォーマーとしての力量不足故に、司会の芸人が「かわいい」って言っておけば場が白けずに済むって事を知っているから言っているんだぞ。

だいたい、本当に控えめなヤツが、自分の可愛さを自覚して、メディアや世の中に出てくるわけがないだろ。

 

具体的に名前を挙げたらキリがないが、彼女らのしたたかさが滲み出ているのに、本気で可愛いと思ってるヤツの気が知れない。特に女。「可愛いと思ってる私可愛い」とでも思っているのだろうか。だとしたら、そいつもかなりしたたかだ。

 

要は私、したたかな女、嫌い。

 

 

 

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官僚?マスコミ?今の日本のホントの黒幕

 

勧善懲悪モノの映画にはお決まりのパターンというものがある。 

まず分かりやすいのが、善に価する主人公が悪である敵をとっ捕まえ、やっつけて、民衆のヒーローになる、というものだ。実にわかりやすい。観る人はそんな分かりやすい世界の前提によって、安心してハラハラドキドキ出来るわけである。

この時の敵というのは、大抵如何にも"悪"という顔をしている。悪であるのが誇らしいかのように悪行を世の中に見せつけ、悪人顔をし、悪を想起させるようなコスチュームを身に纏い、悪の演説をする。この徹底ぶりに観客の方も思わず応援したくなってしまったりする。悪い事も、「俺は悪人だー!」と突き通されてしまうと、次第に好感すら持ててしまうのだ。自分の信念を貫き、それに関しては他人にも自分にもウソはつかず、正々堂々としていて、ヒーローにボコボコにされても立ち上がる。その姿はヒーローにある格好良さと似た所を感じるわけである。

するとどうだろう。話の本質は、相反する2つの価値観の対立となる。物語の決着は大抵、世の中の気分や通説的な正しさや作り手の世界への見方などが決定するわけだが、両者の態度は同じようにブレないので、ちゃんと2つの意見の本質的な闘いとなるのだ。

 

しかし、厄介なパターンというものもある。

この場合の敵も最初は一見如何にも"悪"という顔をしているし、やはり民衆からは目に付くキャラクターである。しかし、サポート役として相棒と呼ぶには上下関係が著しい下僕みたいなキャラクターがいる。一見人が良く、故にボスである悪者にこき使われている。

物語が進むと、然るべきタイミングで事件が起こる。その犯人は悪人顔をしているあの悪者で、ヒーローはそいつの悪行を止めるべく戦いに出る。例のごとくヒーローは悪者を仕留め、民衆はこれで平和で生きやすい世界になるのだと歓喜する。

しかし、エンドロール直前、観客である我々は驚愕の事実を知らされる。また同じような事件が起ころうとしている。悪者を倒したのになぜ?なんと、真の黒幕はあの人の良さそうな下っ端キャラだったのだ!いつもペコペコしていたはずのあのキャラクターと、スクリーンを見ている私たちは目が合う。人が良さそうだったあの笑顔から一変、ニヤリと意味ありげに笑うと画面に文字が出る。「to be continued」

 

ここで観ている方としては「胸熱ーーー!」となるわけだが、頭の良いヒーローなら勘づいていたとしても、歓喜だけして後はお任せ状態の民衆はその後深く考えるわけもなく、またディザスターに巻き込まれるわけである。そしてまた問題が起こっても、目立つし叩きたくなる表面上の悪者役のキャラクターを見つけ出し、叩き、いなくなってまた喜ぶ。しかし真の悪玉の存在には気づいていないから to be continued。

 

今、日本では、このto be continued状態に陥っているのではないだろうか。そう考えると、私のこれまでの疑問の解決の糸口が見えるような気がするのだ。

自民党から民主党にかわりまた自民党になりそれもダメかもしれない、となっている今、同じ事の繰り返しなのではないかと不安になる今、もう少し一歩新しい視点を取り入れるべきなのだ。

最近聞かれる話やニュースは、政治的思想だったりの意味のぶつかり合いというのではない印象を受ける。

政治家は良くも悪くも目立つし、なんかみんな意地悪そうに見えるし、ウソつきで不祥事だらけで、というイメージがあるから叩いて潰れたら喜んでしまいがちだが、それを見えない所でしめしめと思っている存在は本当にいないのだろうか。官僚とかマスコミとか、そういった人らの動きを私を含めた民衆は本当に知っているだろうか。

 

授業で佐藤優の『官僚階級論』の一部分を読んだ。そこには「官僚は、みずからの延命のために国民から税を徴収する階級である。(中略)どんな職種の官僚であれ、官僚は自分の業務が、国民にとって不可欠であり、もっと大きな資源配分(税の徴収と投入)を受けるべきだと考えている。職種は違っても、自身の業務を正当化する理屈の根幹にあるのが「公のため」「国益のため」であることに変わりはない。」と書いてあった。そして、官僚の習性そのものが悪いというのではない、とした上で、「究極には、官僚にとってみずからの延命が図れるのであれば、国家の理念または国民の生命や安全などの二の次のことである。」と続けている。

これに対して、私たちは真っ向から否定出来るだろうか。税金が取られることを嘆き、増税を不当だと反対する声が多く聞かれるその声自体が、全てを語っているのではないか。目に、鼻に付く"悪"をおもしろおかしく叩くのは本当に私たちの批判的思考から出てきたものなのだろうか。

 

まず我々は、ニヤリと笑って見せているその存在がないか疑い、気づくことが大切なのではないだろうか。そう思わずにはいられないのである。

 

 

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優しくない人

 

日本が世界に誇る(らしい)大映画監督、小津安二郎の名作『東京物語』のクライマックスで、紀子というキャラクターが涙を流す。

「私は皆さんが思ってらっしゃるほど優しい人間じゃないですわ」「私、ずるいんです」

それを見た私は、すぐさま脳内の小粋なカフェに紀子を連れ込み、「え、その感じめっちゃわかる〜〜〜!」と、さも友人と語り合うかのようにガールズトークを繰り広げたい気分だった。

 

紀子は、平山家に嫁ぐが、夫は戦死してしまう。地方に住む義父・義母は子供たちに会うため東京に出てくるが、当の子供たちは、そんな両親を面倒くさがって雑に扱う。そんな中、唯一親切に対応していたのが、嫁である紀子であった。

義父・義母は地方に帰る時、「他人のあんたの方がよっぽど良くしてくれた。死んだ夫の事はどうか忘れて、あんたには幸せになってもらいたい」と紀子に告げる。その後の紀子のセリフが、上記の言葉であった。

 

紀子の本心はこうだった。

夫が戦死した事での孤独。そして疎外感。それらを必死に埋める為に、"出来すぎた嫁"を演じる事で、自分の存在意義を言い聞かせる。そのための親切心と優しさだった。どうやら自己欺瞞要素があるらしかった。

 

「私もね、似たような感じあるねん」とエセ関西弁を交えつつ、今度は私の話を紀子に聞いてもらうことにした。

 

私はどういうわけか、よく「優しいね」とか「意外と心広いよね」とか言って貰えることが多々ある。しかし、どうも素直に受け止められない。何なら私の本当のところを見透かされているような気がして、警戒してしまうことすらある。

優しさに関して言えば、嫌われる事への恐怖とか、人に良い気持ちになってもらいたいとか、自分のエゴから来るものなんだろうなというのは、自分の中では明白で、それについてはもう正直、そういう事なんです、と開き直りの境地に至っているのでここでは触れない。(申し訳ない、と一応何かに謝っておく)

 

人が私に「心広いね」という時、たいてい私の交友関係を見て言うらしかった。

私の友人には実に様々なタイプがいると思う。"まとも"に生きている奴もいれば、親には反対されてるんだよね…と言いながら腕に"罪"という文字の墨を入れた奴、学校に来ないなぁと思ってたらSMクラブのバイトを初めていた、なんて奴もいて、挙げればキリがない。

自分としてはいずれとしても大好きな奴らだから、毎度私はよく話を聞き、彼ら彼女らを受け入れてきたつもりだ。

 

しかし、よくよく考えてみると、これも明らかに自分の為なのではないかという気がしてくる。

自分のどこかにある欲望。それを彼らは体現していて、そういう要素のある人と無意識的に仲良くなり、自分の人生に取り入れているのではないか。彼らを通して、自分がしたくても出来ない世界を覗き、自分もした気になっているのではないか。

そして彼らを受け入れることで間接的に、自分の見てはいけないと思ってた部分をしかと見つめ、受け入れようとしているのではないか、と。

 

心の広い、優しい人間になりたいものである。 

 

 

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豊田真由子は本当に悪女か?

 

不倫、パワハラ、いじめ、万引き、etc.

こういった問題に対して、盲目的に表面上の加害者を批判する人の気が知れない。被害にあっている人に対しては、もう潰される前にさっさとそこから逃げろとしか言えないが、こういう問題の加害者に対して「こんな事するなんて人間じゃない!」「醜いモンスターだ!」と汚らわしいと存在を否定し批判する人を見ると、随分ご気楽な人生を歩んで来たんですね、と言いたくなる。

 

こういう問題に関して、大概ワイドショーは「何があったのか」「何故起きたのか」と煽りを入れてCMに入るが、CM明けにそれらが本当の意味で語られたところを私は見たことがない。真相を明らかにするには、知っておかなければならない事、共有されなくては行けない事がもっとあるだろうに。

 

何故、加害者はそういう行為をするに至ったのか、何がそうさせたのか。どうしてその部分をきちんと考えないのだろうか。 

 

例えば、万引きの常習犯は物欲に負けて物を盗み続けるのではないというのは有名な話だ。イジメにおいて、イジメられる方とイジメる方の本質は同じだという。不倫を繰り返す女性というのは、大抵自己肯定感が低く自分は愛される価値がないと思っているから、無意識的に報われない相手を選んで、最終的にやっぱり報われないと、あぁやっぱり私は愛されない人間なのだわと無意識的に安心するというパターンに陥っているという。(人間が一番恐れるのは"変化"であり、状況の善し悪しは関係なく慣れたモノに私達は安心するから)

 

それが、表面だけの事象を捏ねくり回すから、根本的解決にも本質に触れるような議論にも至らない。

 

今回の件について、テレビでは、ストレスのはけ口だとか、選挙への焦りを他者にぶつけるなんて信じられないとか抜かしている。想像力皆無も甚だしい。だからテレビから人が離れていくのだ。

 

豊田氏の友人と名乗る女性のFacebookの記事を読んだ。豊田氏本人へのバッシングに加えて彼女への暴言も酷い事になっている。

私は、これが事実だとしたら、このFacebookの文章こそ世に知らされ、受け入れられるべきものだと思う。正直、「豊田さんの子供たちが後に読むという前提で書く」と言っているのに、半分が彼女らの男関係の話と昔のやんちゃ自慢と読めてしまって、少々気色が悪いが、ちゃんと最後まで読むべき文章である。(むしろ、最後まで読めばその"男関係"も"やんちゃ"も全くの無関係な話という訳ではない事が分かるのだが)

 

 

 

以下は、リンク先を読んでいる前提で話を進めさせてもらう。

 

彼女の過去を少しでも知った今、一連の報道を見ると、その真相は明らかである。

 

彼女は根本的に傷ついている人間で、自己肯定感も低い(高そうなプライドと力強い眉毛はそれを隠すためのものにすら思えてくる)。あの盗聴されたテープ中の短い発言でも、それを象徴しているものがいくつもある。

 

例えば、「私の評判を下げるな!」というのは完璧で無くなること、失敗への極度の恐れである。彼女の経歴を見れば一目瞭然だ。メディアが使いたがる"超エリート"という肩書きからもわかるように、"成功している豊田真由子"が常に評価されてきたわけである。この条件付きの人物評価の繰り返しは、次第に成功していない私は不完全という認識に陥らせる。この刷り込みが幼少期や親から強かった場合、それはイコール成功していないと愛されないという事になる。

成功している自分=愛される価値のある自分 であり、成功=自分の存在価値 であり、逆説的にいうと、失敗=間接的な死 というわけである。

エリートや優等生が失敗に弱く、その後引きこもりやニート、犯罪を犯すなど立ち直れなくなるパターンの多くは、この認識によるものだ。

 

だから、彼女の過去を少し知ると、「私の心を傷つけるな!」「叩かれた方がよっぽど楽だろう!」「お前はどれだけ私の心を叩いてる!」という発言は、本当に100%秘書に向けられていたのかが疑わしい。本人に自覚がなくとも、だ。

秘書にとってはとんだとばっちりだろう(と言ってもこれは私の偏見だが、テープ音声を聞く限りこの秘書というのは、いかにもミスを連発しそうな声色というか仕事がバリバリ出来そうには思えない印象を受ける)。

しかし、彼女にはもっと他に本当にあの言葉をぶつけ伝えたい人物がいるのではないかという気がしてならない。

喚き散らす彼女は、大人が怒りをぶちまけているというよりも、傷ついた反抗期の少女が必死に抵抗し泣き喚いてる様に似ている。

 

メディアは"超エリート"の裏の顔は、パワハラモンスターと報道するが、違う。本当の顔がこちらなのだ。

 

この手の話は、アダルトチルドレンやカウンセリング界隈の本やウェブサイトを見れば沢山出てくる。

 

だから暴言や暴行はしていいんだということには決して繋がらないし、そこからどういう選択をするのかが"大人"という事なのだろう。実際、そういう過去を乗り越えて優しさをもって生きてる人は大勢いる。

しかし、物事の根本と本質を見ず、上澄みだけをなぞって、良いこと言ったみたいな気になってる奴に、私は憤りを感じる。

 

そもそも、その人の生い立ちや過去が、犯罪や、誰かを傷つける出来事や、自己を殺める行為に繋がりかねないという事実は、大事件の度に何度も突き止められて来たはずだ。通り魔事件とか、オウム真理教の事件とか、若者の自殺問題とか、散々語られてきたことがあるじゃないか。

そういう経験を社会はしてきたのに、なぜこういう問題にその経験を落とし込み、多角的に物事を見ることが出来ないのか。学習能力皆無か。

 

豊田真由子には、しなくてはいけない最も重要なことがある。それは相手に謝ることでも、離党届を出すことでもない。自分の傷に気づき、認め、もっと自分を愛さなくてはいけないということだ。そうすれば誰も傷つかない。

 

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国会、小学生の学級会の方がまだマシ

 

政治をやってる大人たちは若者をナメているし、若者は政治をやっている大人たちをナメている。

国民国家は、主体=国民、客体= 国民 であるはずなのに 主体=国民=客体 という図式ではどうやらないらしい。この2つの国民の間には大きな隔たりがあり、お互いが自分たちの活動には必要の無いものだと思っている。お互いに舐め腐って関係ないと思っているから、余計にナメ合うハメになるという始末だ。

 

"共謀罪"や"テロ等準備罪"と呼ばれる法案が"強行採決"によって可決された。

これを聞いた時に催した私の感情は、安保法案が強行採決された時と同じようなものだった。

当時は、もちろん自分の思想とかそういうものから来る動機もあったが、世の中がこんなにも"政治"で熱くなっているのは、その熱さを実感をもって捉えられたのは、自分としてはその時が初めての経験で、TVのニュースやネットの国会中継にかじりついていた。

しかし人々があれだけ注目していた中で取られた行動に私は唖然としてしまった。

部屋に人がバーッと流れ込んできて、人がごちゃごちゃっとなった中で、もちゃもちゃっと誰かの声が聞こえたと思ったら、後ろの方で与党議員がバンザイをしている。はい、決まり。という事らしかった。

 

「小学生の学級会の方がまだマシ」

 

そんな印象だった。国民が絶対に見ることのない場所で実はこんな事が行われていました、というならまだわかる。しかし、メディアを通じて世の中に一連の様子が発信されているのに、ああいうふうに事を運ぶ。

やってしまった者勝ち、ヤり逃げ、というわけである。片や、ヤり逃げしたり当て逃げしたり、一時の弱さ故の不適切な行動で謝っている芸能人がいて、彼らは個人的な事情について説明し、世の中を説得させなければいけないのに、この国の全員に関わるような話はこれで済まされてしまうのか。不審感を抱いて何がおかしい。不審だし不信だ。

 

安保の時も今回の問題も、なされる議論において微妙なズレがある。

法案に賛成している方は法案自体について語っている。それに対し、反対している方は法案だけでなく法案を扱う"人"について語っている。

賛成側は、この法律は必要だとか、何らおかしな点はないとか言っていて、反対側は法案自体というよりも与党のやり方について疑問を抱いている。賛成側は法案自体について語っているから、反対側の意見も法案自体についてのみの言及と見なされ、共謀罪だの言論の自由が脅かされるだの戦争になるだの、話が飛躍しすぎだろ文章読めないのかこの馬鹿が、と言っている。対して反対側は、こんな強行採決をやるようなヤり逃げするような卑怯な奴らが、どうにでも解釈出来る法律を持ってしまったら、またもっと大きなヤり逃げをしかねないぞ、という警告を呈している。しかし賛成側は、何としてでも法案を通したいから読解力がないと見なしている反対側の意見を押し切るので、そのスタンスを見ている反対側としては、ほらな!やっぱり危ないぞ、とさらに不審感を募らせていく。

噛み合っているようでか噛み合っていない。ズレを感じてもどかしい。

 

安保法案の時、あの小学校の学級会が国会議事堂で行われた翌日、もちろんそれはニュースで取り上げられたわけだが、私がいちばん恐れを抱いたのは、ここだった。

私が"生の実感"をもって体感したあの出来事が、TVのニュース番組では局の立場によってニュアンスが全く異なって伝えられ、ネットでは議員たちがもみくちゃになっている映像が出回り、文脈を離れ、面白動画としてコラージュされ、中継を見ていれば明らかにデマとわかる捏造されたストーリーが何万と拡散されていく。中継を見ていれば何が真実か一目瞭然であるのに。もちろん人によって正義は違うのかもしれないが、事実を事実のまま持っておくことは出来る。

しかし、一体誰が夜中の中継を見逃すことなく最後まで見届けられる?一体何人の人が見るというのだ?

あぁ、あの大人たちはそれを見通していてこちらを馬鹿にしていたのかと、その時気づく。

国会の外にいる国民も、あんな大人げないものを見ててもしょうがないと馬鹿にしている。 その悪循環にある。

 

最近、ネットや周りで「すぐ政治の話する人嫌い」と言う同世代をよく見かける。

彼らにしてみれば、自分の日常生活にいっぱいいっぱいで政治なんかに構ってられない、ということらしい。政治によって日常生活を営む基盤が保証されて初めて日常生活がまかなえるのに、日常生活に手一杯で政治に参加出来ない。だから、自分たちの声が届くことはなく、故に手一杯の生活が改善されることも無く、日常生活は余計に手一杯になって、政治に興味を持つ余力もない…というジレンマがここにある。

 

当の私はというと、今回の問題で採決が取られるという日は、行きたくもない苦手な大人数の飲み会に狩り出され、目の前のサラダを取り分けるべきか否かで頭を悩ませ続けていたというのだから、なんとも情けない話である。

 

 

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人類平和の為に戦争は反対という偽善

 

「あなたは戦争に反対か?」そう問われたら、私は間違いなく「当たり前だろ!」と答える。

しかしその理由は、何も、平和な世界は素晴らしいとか、話せばわかるとか、全ての人間が手を取り合って平和な世界へとか、そういう嘘臭い偽善的な理想から来るものではない。

ただただ、戦争が起こったら、私の生活はより面倒臭くさくなりそうだし、ご飯だっていっぱい食べたいし、ぐっすり眠りたいし、近しい人が死んだら嫌だし、そういう面倒な色々に私を巻き込まないでくれ、という理由でしかない。

だから逆に言うと、もし仮に、私のこれまでの生活が完全に保証され、私自身に何ら影響がないと約束された上で、世界で戦争をやりますと言われれば、「あぁ、まぁ、そうですか」くらいにしか思わない自分がいると思う。

 

人間には間違いなく闘争本能というものがある。スポーツにしてもゲームにしても、過激な芸術作品にしても、世の中に存在し、受け入れられ、評価されている時点で、その存在は決定づけられている。

しかし、自分において考えた時、私の中には暴力的な闘争本能というのがなかなか見つからない。

だから私、良い子なんです〜。というアピールでは決してなく、見つからないのか抑圧されているのか、そういうものに全く興味が持てない。

高校までの学生生活で、スポーツをやるのも観るのも「疲れるな」「面倒臭いな」という理由で、積極的に参加したことはないし、小学生の頃までは熱中していたTVゲームも、「疲れが溜まるな」という理由で次第に魅力を失っていった。

最初は、そういうものに熱狂している人間を、文系インドア派特有の斜に構えた発想で馬鹿にしていた時期もあった。

 

しかし、ある時、気づいた。

 

ある日行った、水族館の水槽にいたある魚。そいつは、他の群れから離れて水槽の隅でじっと漂っている。

またある日行った動物園では、檻の中で走り回る動物達の中、ある1匹が、ただただ1点を見つめて呼吸だけしている。

私は人間だから、その間思考を巡らし、それを文章で表現したいという自我が芽生えただけの、あの動物達と一緒なのではないか。

 

私に暴力的な闘争本能が見受けられないのは、私の無意識を掘り下げていくと思い当たる節がある。

私の両親は、私が中学生の頃よく喧嘩をして争っていた。その時私が自分の身を守る為に身に付けた思考の1つが「面倒臭い」である。

だから私にとっての戦争に対しての反対は、「ただでさえ人生面倒臭い事もあるのだから、余計な面倒事に巻き込まず、穏やかに生活させてくれ」という理由に他ならないのである。

 

人間の自然な闘争本能を無いものとして、争う人間は人間じゃないとか、人類の素晴らしい世界を守りましょうなんて偽善をぬかされたところで、正直そんなのどうだっていい。

私としては、穏やかな日常をさらなる面倒事で潰されてたまるか、ラブ&ピースだこの野郎、ってな訳でなのである。

 

 

 

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やっぱ胡散臭くない?詩織さんと山口氏の件、前川前事務次官の件。

 

世の中は“胡散臭いモノ”で溢れている。

胡散臭い物、胡散臭い人、胡散臭い話…etc。

表面上は一見立派なように見えるのだが、どうも表に現れているままに受け取ってはいけないような気がする。

一言で言うならば、いわゆる“信用ならない”というヤツで、その信用ならないモノの表面で巻き起こっていることに対して

 いくら分析しても

いくら多数の人の目に晒されても

いくら論争が巻き起こり

いくら議論がなされたところで

 その信用ならない“胡散臭さ”というものは解きほぐされることは無い。

 それどころかよりその濃度は増してしまうし、本質からどんどん離れていってしまう。

 しかし往々にして、そういう胡散臭いモノというのは人々の関心を引きつける。

人々がその胡散臭さに気づいてか気づいていないのかは定かではないが、端的で、洗練されていて、本質を突いているような、物や人や話題や言葉というものよりは、どうも、人々が本能的に「何か引っかかるぞ」と思うモノの方が、人々は騒ぎ立てる。

 

そもそも「何か引っかかるぞ」というのは言い換えれば“違和感”なのであり、“違和感”というのは「何かこれはおかしいぞ」という“疑念”なわけだ。

 信用あるものには“疑念”など抱くわけがないから、つまりそれは信用ならないモノ すなわち“胡散臭いモノ” ということになる。

 

だからいくら、レイプされた女性が名前と顔を出してエラい・エラくないとか、男が悪い・悪くないとか、前事務次官が暴露して勇気があるとか、出合い系何とかってキモいとか、そんなの関係ないだとか、アベはダメだ・ダメじゃないとか、 そういうことを人々が言ったところで、私の感じる胡散臭さはどうも拭い去れないのである。

 

 では、どういう時に私は“胡散臭い”と感じるのだろう。私は何を見て「これは胡散臭いな」と判断し、斜に構えだすのだろうか。

 

私は今、22歳なのだが、この年齢になると必然的に将来の話になる。

(以下の例え話は完全に自分の事を棚に上げて語らせていただく。なぜなら私は22歳にして大学3年生であるし、将来の見通しについては全く先が見えていないのだから)

 ゔゔん、話を戻して。

 仲間内で将来の話になると、必ず1コミュニティに1人は、「俺は海外に行こうと思うんだ」と急に言い出し始める奴がいる。

それまでは海外なんて眼中になかった奴だ。

そして、いかに日本はダメで、外国は素晴らしく、自分に日本は合わなくて、海外の文化が合っているか、という演説を始める。

 そういう事を急に言い出す人で、現状の生活が上手くいっている人間に出会った試しがない。

 聞いてみると、特に具体的なヴィジョンを明確に描いているわけでもない。ただ漠然とした理想だけがある。

 要は、今自分が置かれている現状は不満で、しかし何が原因なのかも分からない。もしくは自分に原因があるなんて思ってもみない。もしくは、薄々気づいているけれど見て見ぬふりをしている。

でも今のままじゃイヤだから、何かひとつでっかいアクションを起こして、一発逆転を狙いたい。

 私にはそう見えて仕方がない。

 これが合っているのかどうかは知らないが、

本人はそれに気づいてはいない。

 しかし、しばらくすると、「わざわざ海外に行く必要はないと気づいた」とか「現実的に…」とか言って、実際に本当に海外に行った奴は、今のところ私の周りには1人もいない。

 つまり、地に足のついていない一発逆転的な行動や発言に、私は胡散臭さを感じるのだ。

 そしてそれをする人間は、大抵現状に不満を抱いていて、自分はそんなぞんざいな仕打ちに価するような人間じゃないんだ、と叫ばずにはいられない。

 そういった、恐れや不安や不満などのネガティブな感情を、“夢”とか“理想”などといった大層なもので出来た殻で覆って、その表面上で話を展開したところで、その人の本質も出来事や現状の本当のところを知ることもできない。

 残るのは、「どうもコイツは、口で言ってることと本当に言いたいことに違いがありそうだぞ」という“違和感”だけであり、そういう部分に“胡散臭さ”を感じてしまうというわけだ。

 

 そう考えると、前事務次官と、レイプされたかもしれない女性に感じる胡散臭さにも納得がいく。

 権力のあるポストをクビにされ、急にアベ批判を始めたり、レイプ事件が不起訴になった後に急に世に出てきたり。

 それを、世の中のため、正義のため、真実のため、同じ被害にあった女性のため、政権圧力がうんたらかんたら、なんてことを当事者も含め世の中が言い出すから、おかしなことになる。より胡散臭いことになる。

 

海外に行くんだと言い出したアイツだって、

「俺、今何も上手くいっていなくて。でももっと自分を尊重し尊重されながら生きていきたいんだ。俺という人間をもっと世の中に正当に評価してもらいたいんだ。だから海外とか行って、一発逆転成功して、上手くいったらなぁ…なんて事を思っちゃうんだ」

 そう堂々と素直に言えばいいじゃないか。

 そしたらこっちだって、「そっかそっか、そういうことか」と膝を突き合わせて、耳を傾け、話をすることができる。

 

 今回の出来事も、“正義”とか“政治”とか“善悪”とかそういう大層な殻に覆われすぎて、その内側にあるモノがどうも掴めない。

でも人々が知りたいのはその内側にあるモノの方なんじゃないのか。

 今必要なのは、もっとパーソナルな言葉であり、もっとパーソナルな物語なのかもしれない。

 

そんなことを思う。