現役女子大生 白石マーサが斬る!

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コメディと差別とリテラシーと。【ガキ使】【黒塗り・ブラックフェイス】騒動。

 

ある事柄や物事を見て何かを思う時、私たちは内容について語りがちだが、実際はその物事や受け取る私たちが置かれている"文脈"に左右されている事が多い。

 

私があの映画に救われたのも、出会った当時の私がドン底の状態だったからだし、 私が家族のドタバタコメディを見て笑っていられるのも、家族の中にあるゴタゴタの大変さを知っていて、且つ過去のものもとして受け入れられているからだし、あの古いロックバンドの音と詞が染みるのも、当時の社会情勢や作り手の生い立ち、そのバンドの音楽的立ち位置などを踏まえて価値を見出しているからであるし、私があのコンテンツを嫌うのはその内容というよりは、それを楽しんでいる(人間という意味での)人種が嫌いだからである。

私が当時ドン底じゃなかったら、あの映画に、というより映画そのものに見向きもしなかっただろうし、私が未だ家族の問題を抱えていて悩んでいる最中だったら、家族のドタバタコメディで笑えるはずもなく、それはトラジェディーとして私の目には映るだろうし、私が背景を知らずにあの音楽を聞いただけだったら、「あー悪くないな」程度の感想しか持ちえなかっただろうし、もしあのコンテンツを私が憧れている人が楽しんでいたなら、私も触れてみたいと思っただろう。また、こんな背景で生み出されたのですよとか教えられ、知ったのなら、「なんだそんな根深いものだったのか」と見る目が変わったかもしれない。

 

私たちはそれぞれの文脈で物事を見ているし、その文脈によって見え方というのは大きく変わってくる。

 

 

ゴミの山を現代アートの巨匠が六本木の森美術館にそれっぽい題名をつけて展示したら、それは社会問題を考えさせる芸術になるだろう。しかし、同じ六本木でもただ街中においていただけなのなら、東京でよくある見向きもされないただのゴミの山で、気になったとしても汚いなと思う程度にすぎないだろう。例え美術館にあったのと同じゴミの山でも、それが玄関先に置いてあったのなら嫌がらせだと思うかもしれない。し、仮に、ゴミ捨て場に死体遺棄された殺人事件の被害者家族宅の目の前にゴミの山が置かれたとしたら、それはめちゃくちゃホラーなわけである。

 

今回の「ガキの使い」の場合、どの文脈で黒塗りの浜田雅功を見るかによって、その印象は大きく変わってきているわけである。

これについての批判には、肌を黒くしたことを笑ったり黒人を笑い者にしてるのは低俗で差別主義的で、差別的な行動を助長しているだとかいう声があるし、擁護派には、ただ黒人俳優の真似をして、それを笑っているだけだという声もある。

 

しかし私はどうもどちらの言い分もしっくりいかないのだ。

 

浜田雅功が黒塗りで出てきたくだりは、あるひとつの文脈によって成り立っている。

このくだりは、毎回その年のテーマに合った衣装に着替えさせられたメンバーが次々と更衣室から出てくるが、どういう訳か浜田雅功だけ皆と違った格好をさせられているという文脈があって、そこが笑いどころなわけである。だから、女装させられていようが赤ん坊の格好をさせられていようが、むしろ他のメンバーと同じ格好であろうが、我々は「そうきたか!」という点におかしさを覚えるのであって、纏っている風貌が黒人であることに何らメッセージ性はない。

しかし、人権や差別という文脈から見ると、黒人以外の人間が顔を黒く染めるという行為自体、歴史的に見ても賞賛されるものでは無いと、問題になってくるわけだ。

リテラシーという言葉があるが、情報リテラシーというと、「情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のこと」とWikipedia先生には書かれている。おそらく擁護派は、バラエティは自由であるべきだとかいう考えを通すために今回の話題を持ち出しているのだろうし、批判派は差別撲滅という目的を果たすために今回の話題を利用しているにすぎない。

双方どうも議論が噛み合っていかないのは、それぞれの目的の為に、擁護派はバラエティとしての文脈の上でしか話さないし、批判派は人権問題の文脈でしか語らず、自分や相手がどの文脈にいるのか確認したり擦り合わせたりせずに進めるので、段々、日本は問題意識が足りない遅れてるだの、表現の自由を奪うだのという話になっていってしまう。

インターネットの難しさは恐らくそこで、1対1の直接的なコミュニケーションでは、その擦り合わせや絶妙なニュアンスを感じ取りながら発信することが出来るが、Twitterなどでは、自分のコミュニティで通用するニュアンスで書き記したものが、違う文脈の人間が言葉だけを切り取り引用し、コメントを付けたりするので、"クソリプ"になったり、時代遅れになったり、差別弾圧という名の差別がうんたらかんたら、という話になっていってしまう。いや、これが難しいのは一方向メディアであるテレビの方かもしれないという気もしてくる。

 

段々と批判の批判、みたいになってしまったが。

話を本題に戻すと、

黒人の真似をしてるのが面白くて笑っているわけではないから、これを差別だというのは非常にナンセンスである。

しかし、「顔を黒く染めること」でどういう印象を持つ人がいるのか、「顔を黒く染めること」にどういう歴史的背景があるのか制作側は誰も知らなかったのだろうか、ということはとても気になる。

私たちは、メディアにはお偉いさんの監視の目があって、不適切なものは自粛することがあるという事を知っている。それが、国民が望む情報や必要な事でも、圧力や"忖度"によって隠されてることがあるということを知っている。それにも関わらず、歴史的にも世界的にも問題視されている「顔を黒く染めること」をなぜ"忖度"しなかったのか。どういうスタンスで誤解される可能性のある表現を避けずに放送したのか。全く想定していなかったのか、想定した上で差別意図はないから放送したのか。そういう点については非常に気がかりなわけであるし、この表明する意図の内容によって騒動の終着点は変わってくるのだろうと見ている。

 

私たちは、文脈を読み取るリテラシーと意図するところを適切に表現するリテラシーリテラシーリテラシーしたリテラシーリテラシーすることが必要なのだ。リテラシー地獄である。それがどうやら現代という時代らしいのである。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マスコミとは何か。

 

前回の続きです。

(『まだ「マスゴミ」って言ってんの?マスコミはマスコミであってジャーナリズムでないからゴミにすらならない』

 http://shiraishimaasa.hatenablog.com/entry/2017/12/15/213233 )

 

 

そもそも、「マスコミ」とは何なのか。

 

青春キラキラ期と、一般的に最盛期と言われがちなこの時期を、魅力度ランキング最下位県と愛着度ランキング最下位の県で生きることを強いられている20代前半の女がせせポン(そう、せせりポン酢)をつまみながら考えてみる。

 

前回の記事では、

マスゴミ」とはよく言われたものだが、マスコミはマスコミであってジャーナリズムでないからゴミにすらならない、という事を書いた。http://shiraishimaasa.hatenablog.com/entry/2017/12/15/213233

マスコミは自らマスコミと名乗り、我々の望む議論の土俵に立つことすらしていない。マスコミに対して私は諦めが浮上している。しかし、それは消極的で受動的な諦めではない。という事を書いた。

 

 

「マスコミ」は「マスコミュニケーション」の略である。似たような言葉で「マスメディア」もある。

この「マス」とは大衆のことだから、我々一般市民の為のコミュニケーションでありメディアだ、そう思いたくもなる。

だが、残念なことに、このコミュニケーションは私たちの為のものでも、私たちが本来望むようなジャーナリズム的な情報のやり取りを指すのでもないようなのだ。

 

ジャーナリズム・ジャーナリストというと"記者"という人々が思い当たる。組織というよりは独立した記者がいて、彼ら彼女らが集まって団体が出来ている。人脈を駆使して問題に切り込むことはあっても、しがらみを振り切り屈せずに発信し続ける。そんな理想像がある。

しかしマスコミというとどうも実体がない。マスコミというのは独立した個人の集合というよりも、大きな組織であって、その組織のために個人が動く。「マスコミ関係者」などという曖昧な言葉をマスコミが使っていたり、マスコミのマスコミ批判をマスコミがしていたりするとマスコミはマスコミであることを自覚していないのではないかと時々心配になる。当事者意識が無いのだ。

 

じゃあ、マスコミをマスコミたらしめているその組織とは何かと考えると、TV・新聞・週刊誌ももちろん挙げられるだろうが、ここに、広告代理店なんかも入ってくる。

TV・新聞・雑誌などはジャーナリズムの要素はあれど、広告というのはいささかジャーナリズムとはかけ離れているように思われる。

広告というのは、企業から一般市民へのメッセージを媒介するものであり、広告代理店はこれを担っているわけである。

つまり、ジャーナリズムとマスコミの違いを考えた時、この部分が大きな意味を持ってくる。

 

マスコミは、一般市民のためにジャーナリズムを提供したいのではない。自分たちにお金を落としてくれる企業から託されたメッセージを我々に届けられさえすれば万々歳なのだ。

 

はーあ。マスコミを見て真剣にイライラしてたなんてアタシばっかみたい。おかけで、テレビ見てイライラしながら食べたお菓子の袋がこんなだわ。

 

私は「諦め〜〜」とテレビの前に仰向け大の字で寝そべったわけだが、さぁ、これからどう起き上がろうか。(もちろん正確にはせせポンを食べ終わり今はポテサラを食べているので脳内マイルームでの話だ)

 

しかし、何回か言ったように、これはネガティブな諦めではないのだ。

そもそも「あきらめる」とは、一見ネガティブで消極的行為に思われがちだが違うのだ。「明らかにする」これが、諦めるの本来の意味であるらしいのだ。そうだ、そうなのだ。

 マスコミはマスゴミになる土俵すら持ってないのでマスゴミと批判するのはナンセンスなのだ。有限である私たちの貴重で大切な時間とエネルギーをそこにかけるのはもったいないと明らかになったのだ。

 

世の中にはマスコミよりも目につかない所でジャーナリズムをやってる人々が多くいるに違いない。もっと良質なものがこちらに届かない所にたくさんあるはずなのだ。

人の目に届くということが、どれだけ大きな事かというのは、マスコミ・企業があれだけの金と時間と労力を広告やマーケティングに費やしてることからよくわかる。

悪いものが評価し続けられることはなくても、良いものが評価されないことがあるというのは、芸術学部という胡散臭い場所にいると目の当たりにしっぱなしなので非常に良く理解している。

 

私たちは、情報過多の時代に生きているということは、選択するだけの余裕があるという事だ。つまり、私たちが真に望む情報を提供してくれる人々を見つけ、そこにサポートを注げばいい。そして、マスコミというゴミにすらならない曖昧なものに見向きもしなければいい。

 

受け身の時代は終わったのだ。

人間は、持っている情報量が多くなるほど、持つ権力も大きくなるという歴史を生きてきた。これから一般市民の持つ情報量と質がどうなっていくのか。変化が起こりつつあるのは、皆さん実感を持ってご存知のことでしょう。

 

マスコミ、今まで通りだと思ったら、いずれ痛い目を見んぞ。

 

 

 

 

 

 

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まだ「マスゴミ」って言ってんの? マスコミはマスコミであってジャーナリズムでないからゴミにすらならない。

 

マスゴミ」という言葉を最近よく耳にする。

私も、テレビを見ていて「クソだな」「ゴミだな」と思ってイライラが止まらなくなることは多々である。

ストレス発散が食に向かう私は、イライラを抑えるために目の前にあった、CMで流れているのと同じお菓子をつまみながら、しかしどうも見てしまうので、なるほどこういう企業戦略か、と。番組でイライラさせ、CMでそのストレスを麻痺させてくれるような商品をいかにもお客様のためにといった爽やかな笑顔で提示してくる、そういう戦略なんじゃねぇのかと思わずにはやってらんないくらいの勢いである。

 

私たちは「マスゴミ」とマスコミを批判するわけであるが、どうも向こうはこちらを小馬鹿にしたような、痛くも痒くもないというような開き直りの態度で番組を垂れ流している。

しかし、ふと思う。

「待てよ、コイツら、自分でマスコミつっちゃってんぞ」

 

と。

 

私たちがニュースやワイドショーを見るに当たり、画面に映し出されるよう望むモノは、くだらない世間話でも勘違いジジィ&ババァとか、子育てを芸能界で生き残るための手段としている30過ぎて脱げなくなったグラビア上がりとかの戯言ではなく、「ジャーナリズム」これこそが我々の望んでいるモノに他ならない。

しかし、TVや週刊誌などで大腕を振るっている発信者で「ジャーナリスト」ってどれくらいいるんだ?

ワイドショー等を見ていると「マスコミ関係者」というワードはめちゃくちゃ聞くが、「ジャーナリストである◯◯さんによると...」なんていつ聞いた以来だろうか。例え出てきたとしても、それはお抱えジャーナリストというか、(当たり前だが)局やスポンサーや系列がしたい報道内容に利用しやすい事しか言わない。

私たちの望んでいるようなジャーナリズムはそこには存在しない。

そう、「マスコミ」は自らのことを「マスコミ」と名乗っているのであって、ジャーナリズムという我々が望んでいる議論の土俵に立つことすらしていないのだ。だからいつまで経っても、私たちの望む意見が反映されっこないのである。

 

「マスコミ」はあくまで「マスコミ」であって「ジャーナリズム」ではないから、ゴミにすらならない。そうある種の諦めが私の中に浮上した。

 

だからと言って、どうでもいいやと割り切れる程、私が素直な人間だと思ってもらっては困る。この諦めは皮肉にも、明るい諦めなのだ。申し訳ないが、無力で受動的な諦めではない。

 

ではどういう諦めなのか、私たちはどうすればいいのか、そもそもマスコミとは何なのか。

次回に、続く。

 

続き↓↓↓

http://shiraishimaasa.hatenablog.com/entry/2017/12/17/172125

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【大相撲暴行事件】現代の人間社会において、会話中のスマホいじりは"挑発"

 

「現代の人間社会において会話中にスマホをいじるという行為は挑発行為に相当する」(出典:白石ウィキペディア)

 

 

攻撃的な暴力というのは、いささか動物的であるという印象を受けるが、どうやら当の本人たちは手当り次第に攻撃を仕掛け、しょっちゅう喧嘩ばかりしている訳でもないらしい。

血を流すほどの攻撃は、自分や仲間や子供の命、ナワバリを守る為や、子孫を残す為のライバル争いなど、生命活動における重要な局面で行われる。

その争いは、自らの命を繫ぐ捕食活動以外、他者からの何かしらかの挑発があり、それを受ける事で初めて成立する。挑発する方はもちろん、「コイツならいける」「コイツなら挑発しても問題ない」と思う相手だから仕掛けるわけで、受ける方は、相手が自分には及ばない「かかってこいや 」となれば受けて立つし、自分の方が弱いと思えば、何かしらを犠牲にしてその場を去るしかない。

そう考えると、世間様の大好きな理性的であるという事は、人間よりも動物の方が余程理性的で合理的なんじゃないかというような気もしてくる。

 

現代の人間社会において、人が話しているのにスマホをいじるというのは挑発行為に当たる。少なくとも白石ウィキペディアには、そう集合知として記されている。

それがわざとでも、わざとでなくとも、受け取る方はどうも「ピピピッピピピッ!挑発されています!ピピピッピピピッ!」と警告が流れるシステムになっているわけである。

例えば「ウホッウホッ」と言いながら胸を叩く仕草が挑発行為の動物がいるとする。そいつの前で、いくら出会った喜びを表現する為だったとしても、いくら敬意を表すためだったとしても、「ウホッウホッ」っと胸を叩きながらそいつの前に飛び出して行ったら、大腕をブンと振り下ろされて、グチャッである。そういう時は、余計なことをしないとか、距離を置くとか、適切な振る舞いを知っておくとか、誤解を解くとかするしかない。

しかし、そんないきなり殴らなくたってコミュニケーションをきちんと取るべきだった、そうすれば分かるはずだと言われたって、仮にも挑発されている訳だから、話を聞いている余裕なんかある訳がない。自分が脅かされてますよと、警告アラームが流れちゃってるんだから。

日馬富士も流れちゃってたんだろうな、警告。と思うわけである。

 

ロバート・B・チャルディーニは『影響力の武器-なぜ人は動かされるのか』の著書、「カチッ・サー」のページで、動物行動学者たちによると「多くの種で規則的で盲目的な、機械的な行動パターンが確認されている」と述べている。例えば、七面鳥の母鳥に、ピーピーと泣かない雛鳥とピーピーと泣く天敵であるイタチの剥製を近づける実験がある。すると、母鳥は泣かない雛鳥を虐待したり殺してしまったりするが、ピーピーと泣くイタチには近づくことを許し抱きしめ大切にしたという。ここで分かるのは、母鳥は、ピーピーという鳴き声一点において子育てをする判断をしているのであって、その対象の見た目や内容には関係がないという事である。つまり、「カチッとボタンを押すと、その場面に適したテープが動き出し」「サーッとテープが回って一定の標準的な行動が現れる」のだ。

 

今回の事件はしばしば、日馬富士貴ノ岩、加えて白鵬の関係性から、指導教育における暴力と見なされ語られがちという印象を受ける。平成の今になってまで、体罰でしか解決出来ない昭和脳の典型だとし、道徳の教科書の百番煎じみたいな意見ばかりでうんざりする。

 

私はもっと、根本的な人対人の、もっと言うならば生き物対生き物の、暴力だったと睨んでいる。

 

白石ウィキペディアを見てみると、若者の間でも、つまり"昭和脳"ではなく"平成脳"の間でも、やはりスマホ問題というのは根深い。

こっちが真剣に話していたり、相談しているのに、何がそんなに気になるのかスマホをいじり出すヤツというのはいる。向こうが相談を持ちかけてきたとして、こちらが真剣に聞き、意見を求められたのでこちらが話し出した途端、スマホを見出すヤツというのもいる。また、女うちでは「この前デートしたんだけどその人ずっとスマホ見てたの」と落ち込むヤツも、「スマホ見てるなんて男としてというか人としてサイテー!」と怒り出すヤツもいる。冷静なコチラとしては、「次行く場所の地図を調べていたのではないか」「電車の時間を調べてくれてたのかもしれない」「職場から緊急の連絡があったのかもしれない」と、その子に非がある以外のありとあらゆる可能性を提示することは出来るのだが、当の本人は周りがなんと言おうと「私が取るに足らなかったんだわ…」と落ち込んでしまう訳である。

 

 人が話しているのに、目の前でスマホをいじられて嬉しいな♪と言ってるヤツに私はまず出会ったことがない。

それは、対面した相手の意識が自分ではない何かに向けられていると感じた瞬間、自分は尊重されていないという不安感が煽られるからである。

そもそも挑発行為は、コイツなら問題ないと思うから取る行動であるし、それを受け入れ反撃するのは、自分の強さや、尊重されるべきだとか、威厳など、正当性を持っているとか思うからである。

だから、貴ノ岩に至っては、挑発行為をしたらまんまと反撃を食らっちゃったわけであるし、日馬富士はその挑発にまんまと乗せられてしまったわけである。

 

ただ、日馬富士にも大人気(おとなげ)の無さはある。それは、何も暴力を奮ったその事自体ではない。自分の思うようにいかない人間を自分の思うようにしないと気が済まないという、自分と他者との境界線の線引きが出来ていなかった事による。まるで、思うように積み上がらない積み木を「んんんあーー!」と床に叩きつける赤ん坊のような、そんな幼稚さが垣間見える。

 

私は、ある関係性の中で起こった出来事には両者共に少なからずの責任が発生するものだと考えている。(しかし例えば、拉致レイプ等はこれに当てはまらない。これには因果はあっても両者に関係性はないから)

つまり、この事件にも、被害者・加害者というラベリングがされた所で、両者の本質的な責任はフィフティフィフティなのである。

しかしこれは、暴力という目先のわかりやすい出来事だけを追っていたのでは、到底解明出来っこないのである。

 

 

 

 

 

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肯定される暴力

 

ある日、一人暮らしのアパートに帰ってくると、鍵が開いていた。

「あれ?閉めたはずだけど…閉め忘れたかな?」と思い部屋に入ると、見知らぬ人間が部屋を漁っている。

空き巣だ。

私に気づいた犯人は警察に通報されるのを恐れ、殴り掛かってくる。私はそいつの頭を掴んで抵抗したいと思う。が、ここでよぎる。

 

「どんな理由でも暴力はダメ」

「手を出した時点で、犯人と同じレベルに人間が下がる」

 

私は殴られ続け、手持ちの金銭も全て失う。

ギリギリで駆けつけた警察が、拡声器を手に犯人の前に立ちはだかる。

あぁ助かった。

警察は犯人に告げる。

「止まりなさい!」

「盗みも暴力もいけない事です!」

私は警察に訴える。「そいつを取っ捕まえてください!」

警察は拡声器を下ろし、びっくりした面持ちで私に言う。

「それはできません。暴力はいかなる理由であってもいけない事なので。今ここで捕らえる為には犯人を押し倒す必要がありますが、その場合犯人が負傷する恐れもありますし、無傷だったとしてもそれは立派な暴力になってしまいます。相手は人間です。話せば分かるはーーー」

そうこうしているうちに、犯人は警察の横を走り抜けていく。

警察は「止まりなさい!」を繰り返す。

遠くなって行く犯人の後ろ姿…

力つき横たわる私、と現実の私「まじで?しんどい」

 

あまりにも世の中が「どんな理由でも暴力はダメ」だと言うもんだから、私も「どんな理由でも暴力はダメ」という設定でロールプレイングしてみた。独りでやった割にはなかなか迫真の演技だったんじゃないか。

………死んでたらどうするつもりなんだ。

 

 

少し前にツイッターで話題になっていたが、スーパーマーケットで老人に痴漢された女子高生が、犯人に「死ねよジジィ!」と回し蹴りを食らわし、犯人は現行犯逮捕される、ということがあったらしい。よくやった、と女子高生を賞賛する声もあったが、同量に、彼女を批判する声もあり、少々議論が巻き起こされていた。批判する方の言い分は、老人なのに倒れて本当に死んだらどうするんだ、暴力で片を付けなくてもよかったはずだ、ということらしい。こっちのセリフだ、って感じだろうな、その子。

 

暴力といっても、いくつか種類がある。

冒頭のあの素晴らしいロールプレイングを読んで、いやいやそれは極論にすぎない、いかなる暴力つったって、時と場合によるでしょう、と恐らく誰かしらが思ったのが証明しているように、同じ暴力行為でも、その文脈によって変わってくるのだ。

 

ヴォルター・ベンヤミンは『暴力批判論』の中で、「神話的暴力」と「神的暴力」について述べている。「神話的暴力」には「法措定的暴力」と「法維持的暴力」があるとしているが、例えば警察が施行しているのが「法維持的暴力」でろう。これは秩序を守るためなどに使われる。一方痴漢を撃退した彼女のふるった暴力は、「神的暴力」のほうである。これは、やむにやまれぬ暴力だ。内部から湧き上がるもので、冒頭で私が使いたかった暴力でもある。

 

肯定される暴力がある。これは紛れもない事実である。

 

先日述べたアンパンマンも(→ http://shiraishimaasa.hatenablog.com/entry/2017/11/24/154553  )、アメコミのヒーローもスターウォーズもそれを描いているし、私たちの方も、これは一見暴力であるが許される、必要な暴力なのだと言う前提で受け入れている。

 

だから、暴力を一緒くたにまとめて何が何でもダメだと言ってしまうのはおかしい。

 

 

しかし、その線引きと言うのもまた難しい。

例えば、今ある「法維持的暴力」から自由の為に「神的暴力」で立ち上がり、「法措定的暴力」で戦って自由を勝ち取ったとして、今度はこっちが「法維持的暴力」を施行する番になる。この「法維持的暴力」がなければ自由を勝ち取った我々の秩序は保たれないから、厳しく施行していかなければならない。しかし、その限度が度を超す危険性が全くないわけではない。

それを描いているのが、『時計仕掛けのオレンジ』であろう。私は原作は読んでいないので映画での話になるが、社会が不良少年である主人公アレックスを更生させようとする仕打ちは、アレックスと同等かそれ以上に過激なのだ。




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犯罪を減らす為にはどうするのか、防犯に力を入れるため一般市民を監視するという暴力を使うのか、再犯を防ぐため罪を重くするという暴力を振るうのか、それとも北欧みたいに更生に力を入れるのか。いいやいっそのこと、犯罪者に電流のながれるチップでも埋め込んで、また罪を犯しそうになったらビリビリッとやってしまおうとかいう暴力を使うのか。

 

暴力は全て反対。というのは恐らく、手っ取り早いのだろう。とても簡単で楽なのだ。一見いいことを言っているようで、ある意味考えることを放棄しているとも言える。

果たしてそれでいいのか。それはそれで危険ではいやしないか。それとも私が考える快感の為に考えたいだけの話なのか。

いいや、違う。私たちは、暴力の上に成り立っていることを認めなくてはいけない。そして暴力を目の当たりにした時、その種類を極める目を持っていないといけないのである。

 

 

 

 

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日馬富士、貴ノ岩、暴行事件。手段としての暴力と弱さ、そして正義。

 

暴力はいけない事だという社会通念がある。暴力はいかなる理由でも許されず、社会から排除されるべきで、衝動は抑圧しなければならない。何故なら私たちは文明人であり、理性的で、暴力などで物事を解決するのはいけない、という事らしい。

片やテレビでは、アンパンチが繰り出されている。アンパンマンにパンチされたバイキンマンは、バイバイキーンと空彼方へ飛んでいく。町の住人たちは「ありがとう、アンパンマン!」と彼を讃え、エンディング。子どもたちはキャッキャと喜び、母親は夕飯支度の間、子どもが大人しくしていてくれる無難な番組という事で流している。

世の中の勧善懲悪モノも、大概の結果はアクションシーンという名の暴力で決着を付けている。となると、暴力反対のこのご時世、正義のヒーローをやっていくのも大変だな、と思ったりもする。あぁ、だからこの世界では居ないのか。

 

しかし、こうして見てみると、人はどうやら暴力が好きみたいだ。幼少期からの英才教育すらされていた。漫画、アニメ、映画、文学、スポーツ…etc。私たちは暴力を消費し、楽しんでいる。生命の営みであるセックスの描写には容易にレーティング(年齢制限)がかけられているのにも関わらず、ある種の暴力は、ちびっ子ゴールデンタイムに白昼堂々全国地上波でオンエアされている訳である。

(しかしここで注意しておきたいのは、だからと言って、これらを規制すべきだとかいうナンセンスな話をしたい訳ではないという事だ。むしろ逆だ。「いいぞ、もっとだ、もっとやれ」である。表現というのは人を救う程の素晴らしい物でもあるかもしれないが、もっと汚くもっと醜く、目を塞ぎたくなるような要素も孕んでいるのは間違いない。だからこそ揺らぶられる。表現が過激過ぎる?当たり前だろ。だからこそ表現であり、それでなきゃ表現する意味が無い。そういうものに感化されてヤってしまう奴は何を見てもヤってしまうのだ。) 

 

私たちは野蛮人ではないから、文明的で理性的でなければいけないという。しかしその文明も、自然や他民族への暴力を経て生み出されて来た。近代化の象徴である明治維新を初め、歴史や政治というのもまた暴力の繰り返しで成り立ってきている。野蛮的でない私たちは野蛮な私たちによって成り立たされている。

また理性的であるという事は、即ち合理的であるという事だか、裏を返せば、合理的であれば許されるという事でもある。この価値観に慢心し過ぎている状態というのは、ある種の危険を孕んではいやしないか。

私たちは、自分の都合の良い暴力を許し、利用して、都合の悪い暴力を排除しているに過ぎない。

 

恐らく、今回の日馬富士貴ノ岩の事件にも、各々の都合というものがあるに違いない。すぐに病院に行かなかった貴ノ岩にも、何か疑いを掛けたくなるような都合があるに違いないし、白鵬までもがハッキリと供述している日馬富士のほうにも都合があるに違いない。

気をつけなければならないのは、暴力や弱さというのは一見、物事の結果であるように思われがちだが、しばしば手段としても使われる。そして、それらを守る優しさや、擁護や、正義も、その人の中で巻き起こった思念の結果ではなく、自らを望む地位や立場や、手に入れたいモノを得るための手段として使われる事があるということだ。

今回の事件が、単に、飲みの席での上司と若い奴の喧嘩、で済まされず、人々の気にかけられているのは、そういった心当たりに気づいているからに他ならない。

 

また、スポーツ(特に格闘系)の選手の暴行事件や、暴行事件はアニメ・漫画・映画・文学との関係性があるとの議論を見るといつも、その"枠"についてとても興味深く思う。格闘のプロが一般人を殴ったというと、それはちょっとハンデもない事ですし、御手柔らかにしてやれよ、と言いたくもなるが、今回の場合は格闘家同士の問題である。私たちは、ある形式の中での暴力は安心してハラハラドキドキできるようだ。しかし、その外にある暴力は忌み嫌う。形式という枠をはみ出た暴力は、途端に生々しくて見てらんないということらしい。恐らく、枠をはみ出した途端、こっちにも降りかかる身の危険性を感じてしまうのであろう。ホラー映画を見ていて、画面からお化けが飛び出してきたらどうしようというような焦りなのかもしれない。

相撲はただの暴力じゃない、という言い分もあるかもしれない。私は相撲について詳しい訳では無いが、もし相撲が今でも神聖な儀式性を伴うとして、では果たして何故先人たちはその神聖なモノを暴力的な所作に落とし込んだのだろう。

 

そういう事を考えず、様々なモノが複雑に絡み合っているにも関わらず、全てをひっくるめて、暴力発見!悪だ!叩きのめせ!となってしまうのは、ちょっとおかしな事になってしまうんじゃないか、という懸念しか感じないわけである。

 

 

 

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座間9遺体事件の本当の恐ろしさ(3)被害者と死ぬ死ぬ詐欺

 

ツイッターを開いて「ばっかじゃねぇの」とつぶやいた。

座間事件がツイッターを介して展開された事を踏まえ、防止策として規制を検討するという内容のツイートのリツイートリツイートしながらつぶやいた。因みに、このつぶやきは実際の音声を伴うつぶやきである。「その対応が本当に何かを解決してくれるのか?」とつぶやいたのが脳内での出来事であり、ツイッター上につぶやいたのは「まじかー」である。どうやら人の日常は、幾層ものつぶやきによって構成されているらしい。

 

現代社会における、新・3大"使い勝手めちゃ良きの言葉たち"というものがある。今私が作った。堂々の1位は「ヤバい」であるが、1位タイの位置に食らいついているのが「死にたい」である。「死にたい」のに必死に食らいついているなんて、生への欲動を感じさせてなかなかいい感じだ。

 

「死にたい」は万能だ。恐らく万能ネギより万能だ。私は万能ネギを彩りという一点においてしか使ったことがないが、とにかく「死にたい」はそれ以上に万能なのだ。私たちは日々、死へのハードルが下がっている。電車に乗り遅れても死にたくなるし、好きな芸能人に会っても死にたくなる。

そう考えると、仮にこの「死にたい」という言葉が規制されるということは、私たちの言語表現の豊かさを取り戻す良い機会になるかもしれない、と思ったりもする。自分の今の「死にたい」は一体何なのかを考えざるを得なくなる。そうすると、「電車乗り遅れた、死にたい」という所を、「電車に乗り遅れて私は落ち込んでいる。それは間に合わないという事実に対しても、間に合うと思って高を括っていた自分自身への落胆でもある。そして人との約束、自分自身との約束を果たせなかった自己への不信感、それは世界から私という存在を分断させるほどの…」………。なかなか面倒くさそうなヤツという印象を受ける文章になってしまった。と思ったがどういう訳か興味深い事にこのブログと同じような文体になってしまった。

 

この万能な「死にたい」という言葉だが、これを割りかしヘビーな意味合いで使っているにも関わらずいつまで経っても死なない人間の態度を"死ぬ死ぬ詐欺"と言うらしい。死なない度に生きるを選択できて良かったね、とならない辺り皆疲れてんだな、しょうもない飲み会で3000円ドブに捨てるんじゃなくて旨い肉でも食って寝ろよ、で解決させたい気持ちもあるがそういうわけにもいかない。そういう性分なのだ。

 

私はかつては、この"死ぬ死ぬ詐欺"をする人間が嫌いだった。しかし今は、"死ぬ死ぬ詐欺"をする人間を弾圧しようとする人間の方がよっぽど嫌いである。

これまでに述べてきたように、「死にたい」という言葉は万能だ。だが、万能すぎる故にその言葉の出どころの感情は曖昧なままになっている。それは受け取る方にも曖昧なまま届けられるし、発する方も深く考えずに表現できるが故に正確なところを本人すら知らないことが多い。

だから、死ぬ死ぬ詐欺をしている人は結果的に詐欺になっているのであり、本人の中に渦巻く様々な感情が手っ取り早いという理由で「死にたい」という言葉に集約されているだけだ、という事が殆どだと思われる。

 

「死にたい」は、「話を聞いてもらいたい」「認めてもらいたい」「救われたい」「寄り添ってもらいたい」などの気持ちの他に「生きたい」という意味合いをも含んでいる。

 

現に、今回の事件の被害者たちも、本当に死にたいと思っていた人たちはいなかったと言われている。しかし、苦しんでいたというのは紛れもない事実としてそこにあったのだろう。

そして、家族でも友人でも医療でも行政でもなく、見ず知らずの人間に助けを求めたわけである。

見ず知らずの人間に助けを求める事というのは、一見ハードルが高いように見えて、実際はその真逆である。もしそれで助けてもらえなくても、見捨てられても、心は本当のところでは痛くも痒くもないのだ。なぜなら、家族や友人、社会というその人が生きるメインとなる世界に見捨てられた時、その悲しみはそれこそ死に値する程の痛みを伴う。しかし、ネットや見ず知らずの人物というインスタントな世界で精神的な繋がりを求めて、それが叶わなくても、心はその世界ごと切り捨ててしまうことができるから、心は深く傷つかずに済む。もしそれが叶えば、自分が苦しみを抱く主な世界からの束の間の解放と、自分は他にも居場所があるのだというある種の優越感を得ることが出来る。

このご時世、ネットで知り合った見ず知らずの誰かに会うことはリスクを孕む行為だということを( 例え実感がなかったとしても)知らない人間はいないはずだ。しかし、そのリスクの裏側に、誰かにすがりたいという状況にある人間にとっての、絶好のメリットが存在するのである。

 

死ぬ死ぬ詐欺人間弾圧の民が一見優しいのは、「死にたい」と嘆く人にまずは手を差し伸べる所ではあるが、それはこちらから見ていると上辺の優しさなんじゃないかという気がしてくる。私が彼らを嫌うのは、死ぬ死ぬピーポーの言葉尻だけを受け取って、「時間も労力もかけてあげたのにアイツは本当に死ぬつもりも無かったし、また死にたいって言ってる。そんなに死にたいならさっさと死ねよ」と言い出すところだ。エゴの塊みたいな奴らだ。死ぬ死ぬピーポーも「死にたい」という便利な言葉に頼ってばかりいないで素直になれよ、「死にたい」というポップな言葉でパッケージ化される前の混沌とした気持ちを思い出せよ!と私の中の松岡修造がアツくなり、「来いよ、来いよ」と私の中の渡部篤郎が静かに煽りだしたくなる気持ちも無きにしも非ずなのだが、それが出来るくらい理性的であればそもそも「死にたい」という言葉が出てくるわけもないのだから人に「死ねよ」と言うだけのエネルギーがある人間はもう少し寛大でいてあげてもいいんじゃないかとも思う。

弾圧する人間は「人の時間をなんだと思ってるんだ」という言い分のようだ。が、お前がその時間をそいつに使ったのはお前が好きでやったことなはずだ。彼らが懸念してるのはその人が死ぬこと自体ではなく、これで断って死なれたら自分に罪悪感が一生降りかかってくるかも知れないという恐れだ。じゃなかったら、死にませんでした〜となっても「よかったね」で済むはずだ。しかし、怒り出すのは、自分の時間を無駄にされたという事自体に憤っているのではなく、自分の労力が報われなかったと自分が尊重されなかったことに憤っているわけである。つまり彼らが望んでいる真の目的は、死にたい人に手を差し伸べた結果「ありがとう、あなたのおかげで生きていけるわ」という言葉を貰うことであり、その人を本当に救い出すことではない。死ぬ死ぬ詐欺を許さないと逆ギレする人は、死ぬ死ぬ詐欺の人を自分の欲求を満たすために利用しているに過ぎない、というエゴが垣間見えるから嫌いだ。彼らが使っている優しさは、所詮条件付きの優しさであるにもかかわらず、こんなにも人の為に動いてあげたのに裏切られたという被害者ぶっているから嫌いなのだ。本当の優しさが無いくせに生半可な覚悟での人助けなんて辞めちまえ。自己犠牲をするだけの器量がないくせに自己犠牲の名を借りてエゴを満たそうとするな。自己犠牲を美徳とする風潮の罪がここにある。

人は何をしたって死ぬ時は死ぬ。

 

詐欺行為を見てムカつくというタイプの人間もいる。これはかつての私にも当てはまるが、みんな辛い中頑張ってんだから甘ったれんなということらしい。

思う分には大いに構わないと思う。死にたいのもそれにムカつくのも、それぞれの感情であり、感情には正誤もないし、誰に否定出来るものでもない。 

しかし、よくよく考えてみると、「みんな辛いのだから辛い時は死にたいと言わずに頑張る」のは、誰に強制された訳でもない。好きでやってる事だ。さっきの人助けの話にも繋がるが、好きでやってるはずのことを棚に上げてるにすぎない。つまりここでの「ムカつく」は「ずるい」ということになるのだが、誰もズルはしていない。みんな苦しんでる中弱音を吐かずに頑張らないといけない、そうしないと失格ですというルール、私の記憶では、ない。勝手にそうしてるだけだ。

 

時たま、タチの悪い人間もいて、そいつらの究極のセリフが、誰しも一度は聞いたことあるアレだ。

「世界にはもっと恵まれてない人がいるんだから、あなたの方が幸せよ」

あなたの痛みは甘えよということらしい。膝を擦りむいて痛がってる人に、「世の中には足のない人もいるのよ」と言ってるくらい見当違いも甚だしい。それにお前の基準では足のない人は不幸、ということになってるが、それはそれでだいぶ失礼だ。本当にデリカシーがない。

膝を擦りむいて痛みをグッと堪える人もいれば、歩けないと泣き喚く人もいる。痛みの感じ方と表現の仕方は人それぞれなのだ。

 

励ましの意味で言ってる人もいるらしい。「皆辛くても頑張ってるんだから一緒に頑張って行きまっショイ♪」ということらしいが、たぶん人生を部活の延長か何かだと思っている。私はそういうテンションを見ると激萎え〜なので、「先生、白石見学します」と挙手して体育館の隅で膝を抱えて座り込みたくなる。

 

あぁ、思い出した。私は中学の時、バスケ部の試合中、敵の足に引っかかって転んだ事があった。私は試合中だからと痛みを堪え立ち上がり走り出した。しかしその後、チームメイトが急に泣き出した。敵の腕が当たって目が痛い、見えない、だとかで、試合は中断、痛がるチームメイトは一同の同情を集め、敵チームからも謝罪を受けていた。数時間後、彼女は何事も無かったかのようにケロッとしていたが、私は何日経っても足の痛みが引かず、一ヶ月近くテーピング生活だった。その時、私は彼女にムカついていた。ずるいと思った。しかし別に試合中だから泣いてはいけないルールも、痛みを堪えて続行しなきゃ行けないルールもない。全部私が勝手にしたことだ。しかし、当時はそういう事ができる彼女に憎しみの篭った羨ましさを感じていたのだ。

 

どんな状況でも、そこに居るというのは、全て自らが選択した結果でしかない。

「忙しくて3時間しか寝てない、眠い」と言いながら今日も3時間しか寝ない自慢をしてるアイツも、「お腹空いた」といって食べないでお腹空いたと言い続けるアイツも、「仕事やめたい」というから「辞めてもいいんじゃない?」と言っても未だ辞めないあの子も、「死にたい」つっても死なない人に「死ね」と言ったところで、今ここに居るというのは(例えそれが消去法だったとしても)自らが好んで選び抜いた結果なのだ。

 

アメリカのスタンダップ・コメディアンにルイス・C・Kという人物がいる。彼のネタの中に、若者の自殺問題を取り上げ皮肉に切り込んだジョークがある。

「今日自殺しなかったくらいには人生が好きだ。ちょうどそれくらい。世の中なんて今日自殺しなかったひとばっかりだ」

 

どうやら私も、ちょうどそのくらい人生が好きみたいだ。