現役女子大生 白石マーサが斬る!

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現代にあるズレとサムライマインド(笑)な日本人【森友問題】から感ずること

 

皆さんはゲーム・オブ・スローンズという海外ドラマをご存知だろうか。

内容と概要は下記のリンクもしくはググって確認して頂くとして、

 

ワーナーブラザーズ公式サイト↓

https://warnerbros.co.jp/tv/gameofthrones/

 

ワーナーブラザーズ公式サイト(ep1)↓

https://warnerbros.co.jp/kaidora/detail.php?title_id=3789

 

スターチャンネル公式サイト↓

https://www.star-ch.jp/drama/gameofthrones/sid=1/p=i/

 

 

 

 

海外ドラマの(割と熱狂的な)ファンの私が今イチバン推している作品だ。

最近知人に会う度に「何か一つ何でも言うことを聞くから、とりあえず1話だけでも見てくれ」と頼み込むほどオススメしている。

当然ながらこれは罠で、1話さえ見させられたらコッチのもの。アイツは70時間、画面から目を話せなくなる生活に陥る事であろう。ハッハッハッハ〜。

 

この物語には、王様・領主とそれに忠誠を誓う家来や民たちという構図がしばしば出てくる。

いわゆる、〈御恩と奉公〉みたいなものだ。

王様がいるというのはなんだか、一般市民は不自由で堅苦しい生活を強いられていそうだなと思ったりもしたのだが、個人主義的な時代に生きる私から見ると、何だかとても羨ましくも思えてくる。私が剣を抜いて跪き忠誠を誓えば、彼・彼女たちは全力で私を守る事を約束する。私は命をかけて彼・彼女らを慕い、そして彼・彼女らは、実際に守ってくれる。

まぁそれが成り立つ為には、王や領主が"人格者"であるという最重要条件が必要不可欠なのだが。

ドラマではそれはそれは一筋縄では行かず、ご都合主義で生ぬるい他のドラマや映画を嘲笑うかのように目まぐるしく物語は展開され、(一応架空の世界を舞台にしているので)ファンタジーであるはずなのに、見ている私は「あ〜〜現実ぅ〜〜!」と、驚嘆しながらスマホの〈次のエピソードへ ボタン〉を押しまくるハメになる。

 

こういうのを見た後に、最近はめっきり電源を入れなくなったテレビをつけて流れる、森友学園の問題の一連のニュースを見ていると、あぁ、このお偉いさん方は、サムライごっこをやってんのか、と思わざるを得ない。

命(ここでは比喩として使うが)の危機に晒されているお殿様を全力で守る為に、まぁ嘘をついたり、しらばっくれたり、話を逸らしたりと闘っているわけだ。自分では守りきれないとなったら、自死にまで至る。

見てる方も、やってる方も、こんなの茶番だと分かりきっているはずなのに。

 

国会と国民のズレとか、一部の年寄りと若者のズレとか。そういう問題も、サムライマインドでやってこれた世代・世界と、サムライマインドではやっていけない事に気づき始めた世代・時代とのズレによって引き起こされている事が多いのではないだろうか。

日本には殿様も、代々の家系によって決定されるような領主もいないかもしれない。天皇も"象徴"かもしれない。

 

しかし、近代になり、資本主義社会になった世界で、〈御恩と奉公〉の関係が無くなったか、と言われたら、そうとも限らない。

 

国会や官僚という組織の中では、"派閥"という言葉があるように、権力争いが存在するだろうし、その組織の中では〈御恩と奉公〉な関係があるだろう。

資本主義社会における会社では、日本は"終身雇用"というように、社員がある会社に忠誠を誓い、その代わり会社は社員を定年まで面倒を見てやる、といった制度があったわけである。今でこそ終身雇用というと、死ぬ間際まで働かされる足枷、みたいなネガティブなイメージも付きまとうが、本来は、定年まであなたの生活を保証しますよ、ということでもあったはずだ。労働者は会社に尽くし、会社は労働者に利益を還元する。一時は会社がリゾート地に別荘だかホテルだかを所有していて社員は無料で利用出来たみたいな事があった、と小耳に挟んだこともある。

しかし、労働者に還元されていた利益は株主に流れ、リストラで見捨てられる可能性もある。極めつけはブラック企業で、労働力や命までも搾取されることもある。

そんな時代に、根性だの御奉仕だの、上の世代が声高々に掲げている方法論では、どうやら成り立たなくなっているぞ、という気づきが世の中に発生しているわけである。

サムライマインドはもう終わりだ。もう古いのだ。そういう風潮になってきているのを肌で感じる。

 

しかし、この風潮を世界的に見てみると、やっぱり日本は一段階、ワンテンポ遅れているというような気もする。(別に遅れていてダメなんじゃないかという意味ではない)

国というものに縛られずにとりわけやってきたように見えるアメリカもイギリスも、トランプを大統領にしたり、EUを離脱することで、再び〈国〉を求めたわけである。

それを求めたのが、どの年齢・世代なのかにもよって、その解釈は勿論変わってくるだろう。

しかし、「あの良かった時代をもう一度」だとしても、〈御恩と奉公〉は古いとしながらも、しかし個で生きる事の重荷から解放されたいという思いからだとしても、(個としての"人間"ではなく、"人類"とか集団としての)"人間"の狂気が突出してくる時には、たいてい良くも悪くも神話的なリーダーの存在が絡んで来るように、私たちは、個として尊重されながらも個以上の存在でありたいと望む面倒臭い生き物なのだと思わされる。

 

そんな所まで思考がトンだところでテレビの画面に目をやると、国会中継で佐川前国税庁長官が飛び交う質問におんなじ答えを繰り返している。彼が守らされている殿様に彼はそんなに御恩を与えて貰えるんだろうか。立ったり座ったり立ったり座ったり、だんだん気の毒になってくる。

彼の対応を見ているとなんだかとっても皮肉な構造である。

 

2018年3月27日

 

 

 

 

 

 

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【映画感想】グレイテストショーマンが嫌いだった人とは友達になれる気がする。

 

非常に気持ち悪い。

自惚れの強い映画。そして実に現代的な映画

 

 

↓↓↓以下、ネタバレなしの感想です↓↓↓

 

この物語は、一見難しいテーマ、多様なキャラクターを描いた様に見せている。

しかし、そのどれもが薄い。ドラマパートも典型的過ぎてとにかく薄い。

一見多様なキャラクターも、物語展開の為に用意されたキャラクターにすぎない。

 

所詮は、〈ユニーク〉な人々を認めて“あげる”のだ。そして認めて“あげる”のは白人の男である。その“寛容な”人間の為のツールとして“ユニーク”が利用されている。この物語は、バーナムという男が〈ユニーク〉=マイノリティをサーカスに出させて、ショービジネスで成功するという話しだが、ここで私が言いたい「利用されている」というのは何も、ショーのパフォーマーとして利用されているという事ではない。

そういえば、この気持ち悪さや違和感は、義務教育過程で行われる〈ボランティア〉活動を見ている時のソレと似ている。内申書に書くために、つまり自分の評価のために、自分の手柄のために〈誰かの為〉に活動する、あの中身の伴っていない気持ち悪さだ。

 

This is me のナンバーのシーンが一番感動的なのは、〈ユニーク〉が自ら立ち上がるからだ。立ち上がらせて“もらう”のではない。立ち上がる環境を与えて“もらう”わけでもない。しかし、この作品はそこを掘り下げることにもならない。最終的に彼らは、団長に擦り寄るのだ。そして、指揮者は彼らを率いて“あげる”わけである。

 

また、小難しい芸術を否定し、みんなが笑顔ならそれでいいじゃん、という大衆主義。アンチ・インテリ。デモクラシー。これもまさに現代である。

トランプが大統領になったのも、デモクラシーの結果であるし、差別や平等に関する議論がどれも気持ち悪いことになるのもまさに現代である。

 

この気持ち悪さについてメタ的に批判眼を持って描いているのなら、スタンディングオベーション物の傑作であろうが、無意識にこういうことになっているなら、この映画をこれだけの人々が手放しに賞賛しているのなら、非常に危険である。許せない。頭にくる。

 

ただ、バーン!とヒュー・ジャックマンにセンターで歌って踊られると全て持っていかれそうになるので、オマケでスコア3点追加といったところ。

 

 

次回、細かく考察していきます。

 

 

 

 

 

 

 

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コメディと差別とリテラシーと。【ガキ使】【黒塗り・ブラックフェイス】騒動。

 

ある事柄や物事を見て何かを思う時、私たちは内容について語りがちだが、実際はその物事や受け取る私たちが置かれている"文脈"に左右されている事が多い。

 

私があの映画に救われたのも、出会った当時の私がドン底の状態だったからだし、 私が家族のドタバタコメディを見て笑っていられるのも、家族の中にあるゴタゴタの大変さを知っていて、且つ過去のものもとして受け入れられているからだし、あの古いロックバンドの音と詞が染みるのも、当時の社会情勢や作り手の生い立ち、そのバンドの音楽的立ち位置などを踏まえて価値を見出しているからであるし、私があのコンテンツを嫌うのはその内容というよりは、それを楽しんでいる(人間という意味での)人種が嫌いだからである。

私が当時ドン底じゃなかったら、あの映画に、というより映画そのものに見向きもしなかっただろうし、私が未だ家族の問題を抱えていて悩んでいる最中だったら、家族のドタバタコメディで笑えるはずもなく、それはトラジェディーとして私の目には映るだろうし、私が背景を知らずにあの音楽を聞いただけだったら、「あー悪くないな」程度の感想しか持ちえなかっただろうし、もしあのコンテンツを私が憧れている人が楽しんでいたなら、私も触れてみたいと思っただろう。また、こんな背景で生み出されたのですよとか教えられ、知ったのなら、「なんだそんな根深いものだったのか」と見る目が変わったかもしれない。

 

私たちはそれぞれの文脈で物事を見ているし、その文脈によって見え方というのは大きく変わってくる。

 

 

ゴミの山を現代アートの巨匠が六本木の森美術館にそれっぽい題名をつけて展示したら、それは社会問題を考えさせる芸術になるだろう。しかし、同じ六本木でもただ街中においていただけなのなら、東京でよくある見向きもされないただのゴミの山で、気になったとしても汚いなと思う程度にすぎないだろう。例え美術館にあったのと同じゴミの山でも、それが玄関先に置いてあったのなら嫌がらせだと思うかもしれない。し、仮に、ゴミ捨て場に死体遺棄された殺人事件の被害者家族宅の目の前にゴミの山が置かれたとしたら、それはめちゃくちゃホラーなわけである。

 

今回の「ガキの使い」の場合、どの文脈で黒塗りの浜田雅功を見るかによって、その印象は大きく変わってきているわけである。

これについての批判には、肌を黒くしたことを笑ったり黒人を笑い者にしてるのは低俗で差別主義的で、差別的な行動を助長しているだとかいう声があるし、擁護派には、ただ黒人俳優の真似をして、それを笑っているだけだという声もある。

 

しかし私はどうもどちらの言い分もしっくりいかないのだ。

 

浜田雅功が黒塗りで出てきたくだりは、あるひとつの文脈によって成り立っている。

このくだりは、毎回その年のテーマに合った衣装に着替えさせられたメンバーが次々と更衣室から出てくるが、どういう訳か浜田雅功だけ皆と違った格好をさせられているという文脈があって、そこが笑いどころなわけである。だから、女装させられていようが赤ん坊の格好をさせられていようが、むしろ他のメンバーと同じ格好であろうが、我々は「そうきたか!」という点におかしさを覚えるのであって、纏っている風貌が黒人であることに何らメッセージ性はない。

しかし、人権や差別という文脈から見ると、黒人以外の人間が顔を黒く染めるという行為自体、歴史的に見ても賞賛されるものでは無いと、問題になってくるわけだ。

リテラシーという言葉があるが、情報リテラシーというと、「情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のこと」とWikipedia先生には書かれている。おそらく擁護派は、バラエティは自由であるべきだとかいう考えを通すために今回の話題を持ち出しているのだろうし、批判派は差別撲滅という目的を果たすために今回の話題を利用しているにすぎない。

双方どうも議論が噛み合っていかないのは、それぞれの目的の為に、擁護派はバラエティとしての文脈の上でしか話さないし、批判派は人権問題の文脈でしか語らず、自分や相手がどの文脈にいるのか確認したり擦り合わせたりせずに進めるので、段々、日本は問題意識が足りない遅れてるだの、表現の自由を奪うだのという話になっていってしまう。

インターネットの難しさは恐らくそこで、1対1の直接的なコミュニケーションでは、その擦り合わせや絶妙なニュアンスを感じ取りながら発信することが出来るが、Twitterなどでは、自分のコミュニティで通用するニュアンスで書き記したものが、違う文脈の人間が言葉だけを切り取り引用し、コメントを付けたりするので、"クソリプ"になったり、時代遅れになったり、差別弾圧という名の差別がうんたらかんたら、という話になっていってしまう。いや、これが難しいのは一方向メディアであるテレビの方かもしれないという気もしてくる。

 

段々と批判の批判、みたいになってしまったが。

話を本題に戻すと、

黒人の真似をしてるのが面白くて笑っているわけではないから、これを差別だというのは非常にナンセンスである。

しかし、「顔を黒く染めること」でどういう印象を持つ人がいるのか、「顔を黒く染めること」にどういう歴史的背景があるのか制作側は誰も知らなかったのだろうか、ということはとても気になる。

私たちは、メディアにはお偉いさんの監視の目があって、不適切なものは自粛することがあるという事を知っている。それが、国民が望む情報や必要な事でも、圧力や"忖度"によって隠されてることがあるということを知っている。それにも関わらず、歴史的にも世界的にも問題視されている「顔を黒く染めること」をなぜ"忖度"しなかったのか。どういうスタンスで誤解される可能性のある表現を避けずに放送したのか。全く想定していなかったのか、想定した上で差別意図はないから放送したのか。そういう点については非常に気がかりなわけであるし、この表明する意図の内容によって騒動の終着点は変わってくるのだろうと見ている。

 

私たちは、文脈を読み取るリテラシーと意図するところを適切に表現するリテラシーリテラシーリテラシーしたリテラシーリテラシーすることが必要なのだ。リテラシー地獄である。それがどうやら現代という時代らしいのである。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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マスコミとは何か。

 

前回の続きです。

(『まだ「マスゴミ」って言ってんの?マスコミはマスコミであってジャーナリズムでないからゴミにすらならない』

 http://shiraishimaasa.hatenablog.com/entry/2017/12/15/213233 )

 

 

そもそも、「マスコミ」とは何なのか。

 

青春キラキラ期と、一般的に最盛期と言われがちなこの時期を、魅力度ランキング最下位県と愛着度ランキング最下位の県で生きることを強いられている20代前半の女がせせポン(そう、せせりポン酢)をつまみながら考えてみる。

 

前回の記事では、

マスゴミ」とはよく言われたものだが、マスコミはマスコミであってジャーナリズムでないからゴミにすらならない、という事を書いた。http://shiraishimaasa.hatenablog.com/entry/2017/12/15/213233

マスコミは自らマスコミと名乗り、我々の望む議論の土俵に立つことすらしていない。マスコミに対して私は諦めが浮上している。しかし、それは消極的で受動的な諦めではない。という事を書いた。

 

 

「マスコミ」は「マスコミュニケーション」の略である。似たような言葉で「マスメディア」もある。

この「マス」とは大衆のことだから、我々一般市民の為のコミュニケーションでありメディアだ、そう思いたくもなる。

だが、残念なことに、このコミュニケーションは私たちの為のものでも、私たちが本来望むようなジャーナリズム的な情報のやり取りを指すのでもないようなのだ。

 

ジャーナリズム・ジャーナリストというと"記者"という人々が思い当たる。組織というよりは独立した記者がいて、彼ら彼女らが集まって団体が出来ている。人脈を駆使して問題に切り込むことはあっても、しがらみを振り切り屈せずに発信し続ける。そんな理想像がある。

しかしマスコミというとどうも実体がない。マスコミというのは独立した個人の集合というよりも、大きな組織であって、その組織のために個人が動く。「マスコミ関係者」などという曖昧な言葉をマスコミが使っていたり、マスコミのマスコミ批判をマスコミがしていたりするとマスコミはマスコミであることを自覚していないのではないかと時々心配になる。当事者意識が無いのだ。

 

じゃあ、マスコミをマスコミたらしめているその組織とは何かと考えると、TV・新聞・週刊誌ももちろん挙げられるだろうが、ここに、広告代理店なんかも入ってくる。

TV・新聞・雑誌などはジャーナリズムの要素はあれど、広告というのはいささかジャーナリズムとはかけ離れているように思われる。

広告というのは、企業から一般市民へのメッセージを媒介するものであり、広告代理店はこれを担っているわけである。

つまり、ジャーナリズムとマスコミの違いを考えた時、この部分が大きな意味を持ってくる。

 

マスコミは、一般市民のためにジャーナリズムを提供したいのではない。自分たちにお金を落としてくれる企業から託されたメッセージを我々に届けられさえすれば万々歳なのだ。

 

はーあ。マスコミを見て真剣にイライラしてたなんてアタシばっかみたい。おかけで、テレビ見てイライラしながら食べたお菓子の袋がこんなだわ。

 

私は「諦め〜〜」とテレビの前に仰向け大の字で寝そべったわけだが、さぁ、これからどう起き上がろうか。(もちろん正確にはせせポンを食べ終わり今はポテサラを食べているので脳内マイルームでの話だ)

 

しかし、何回か言ったように、これはネガティブな諦めではないのだ。

そもそも「あきらめる」とは、一見ネガティブで消極的行為に思われがちだが違うのだ。「明らかにする」これが、諦めるの本来の意味であるらしいのだ。そうだ、そうなのだ。

 マスコミはマスゴミになる土俵すら持ってないのでマスゴミと批判するのはナンセンスなのだ。有限である私たちの貴重で大切な時間とエネルギーをそこにかけるのはもったいないと明らかになったのだ。

 

世の中にはマスコミよりも目につかない所でジャーナリズムをやってる人々が多くいるに違いない。もっと良質なものがこちらに届かない所にたくさんあるはずなのだ。

人の目に届くということが、どれだけ大きな事かというのは、マスコミ・企業があれだけの金と時間と労力を広告やマーケティングに費やしてることからよくわかる。

悪いものが評価し続けられることはなくても、良いものが評価されないことがあるというのは、芸術学部という胡散臭い場所にいると目の当たりにしっぱなしなので非常に良く理解している。

 

私たちは、情報過多の時代に生きているということは、選択するだけの余裕があるという事だ。つまり、私たちが真に望む情報を提供してくれる人々を見つけ、そこにサポートを注げばいい。そして、マスコミというゴミにすらならない曖昧なものに見向きもしなければいい。

 

受け身の時代は終わったのだ。

人間は、持っている情報量が多くなるほど、持つ権力も大きくなるという歴史を生きてきた。これから一般市民の持つ情報量と質がどうなっていくのか。変化が起こりつつあるのは、皆さん実感を持ってご存知のことでしょう。

 

マスコミ、今まで通りだと思ったら、いずれ痛い目を見んぞ。

 

 

 

 

 

 

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まだ「マスゴミ」って言ってんの? マスコミはマスコミであってジャーナリズムでないからゴミにすらならない。

 

マスゴミ」という言葉を最近よく耳にする。

私も、テレビを見ていて「クソだな」「ゴミだな」と思ってイライラが止まらなくなることは多々である。

ストレス発散が食に向かう私は、イライラを抑えるために目の前にあった、CMで流れているのと同じお菓子をつまみながら、しかしどうも見てしまうので、なるほどこういう企業戦略か、と。番組でイライラさせ、CMでそのストレスを麻痺させてくれるような商品をいかにもお客様のためにといった爽やかな笑顔で提示してくる、そういう戦略なんじゃねぇのかと思わずにはやってらんないくらいの勢いである。

 

私たちは「マスゴミ」とマスコミを批判するわけであるが、どうも向こうはこちらを小馬鹿にしたような、痛くも痒くもないというような開き直りの態度で番組を垂れ流している。

しかし、ふと思う。

「待てよ、コイツら、自分でマスコミつっちゃってんぞ」

 

と。

 

私たちがニュースやワイドショーを見るに当たり、画面に映し出されるよう望むモノは、くだらない世間話でも勘違いジジィ&ババァとか、子育てを芸能界で生き残るための手段としている30過ぎて脱げなくなったグラビア上がりとかの戯言ではなく、「ジャーナリズム」これこそが我々の望んでいるモノに他ならない。

しかし、TVや週刊誌などで大腕を振るっている発信者で「ジャーナリスト」ってどれくらいいるんだ?

ワイドショー等を見ていると「マスコミ関係者」というワードはめちゃくちゃ聞くが、「ジャーナリストである◯◯さんによると...」なんていつ聞いた以来だろうか。例え出てきたとしても、それはお抱えジャーナリストというか、(当たり前だが)局やスポンサーや系列がしたい報道内容に利用しやすい事しか言わない。

私たちの望んでいるようなジャーナリズムはそこには存在しない。

そう、「マスコミ」は自らのことを「マスコミ」と名乗っているのであって、ジャーナリズムという我々が望んでいる議論の土俵に立つことすらしていないのだ。だからいつまで経っても、私たちの望む意見が反映されっこないのである。

 

「マスコミ」はあくまで「マスコミ」であって「ジャーナリズム」ではないから、ゴミにすらならない。そうある種の諦めが私の中に浮上した。

 

だからと言って、どうでもいいやと割り切れる程、私が素直な人間だと思ってもらっては困る。この諦めは皮肉にも、明るい諦めなのだ。申し訳ないが、無力で受動的な諦めではない。

 

ではどういう諦めなのか、私たちはどうすればいいのか、そもそもマスコミとは何なのか。

次回に、続く。

 

続き↓↓↓

http://shiraishimaasa.hatenablog.com/entry/2017/12/17/172125

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【大相撲暴行事件】現代の人間社会において、会話中のスマホいじりは"挑発"

 

「現代の人間社会において会話中にスマホをいじるという行為は挑発行為に相当する」(出典:白石ウィキペディア)

 

 

攻撃的な暴力というのは、いささか動物的であるという印象を受けるが、どうやら当の本人たちは手当り次第に攻撃を仕掛け、しょっちゅう喧嘩ばかりしている訳でもないらしい。

血を流すほどの攻撃は、自分や仲間や子供の命、ナワバリを守る為や、子孫を残す為のライバル争いなど、生命活動における重要な局面で行われる。

その争いは、自らの命を繫ぐ捕食活動以外、他者からの何かしらかの挑発があり、それを受ける事で初めて成立する。挑発する方はもちろん、「コイツならいける」「コイツなら挑発しても問題ない」と思う相手だから仕掛けるわけで、受ける方は、相手が自分には及ばない「かかってこいや 」となれば受けて立つし、自分の方が弱いと思えば、何かしらを犠牲にしてその場を去るしかない。

そう考えると、世間様の大好きな理性的であるという事は、人間よりも動物の方が余程理性的で合理的なんじゃないかというような気もしてくる。

 

現代の人間社会において、人が話しているのにスマホをいじるというのは挑発行為に当たる。少なくとも白石ウィキペディアには、そう集合知として記されている。

それがわざとでも、わざとでなくとも、受け取る方はどうも「ピピピッピピピッ!挑発されています!ピピピッピピピッ!」と警告が流れるシステムになっているわけである。

例えば「ウホッウホッ」と言いながら胸を叩く仕草が挑発行為の動物がいるとする。そいつの前で、いくら出会った喜びを表現する為だったとしても、いくら敬意を表すためだったとしても、「ウホッウホッ」っと胸を叩きながらそいつの前に飛び出して行ったら、大腕をブンと振り下ろされて、グチャッである。そういう時は、余計なことをしないとか、距離を置くとか、適切な振る舞いを知っておくとか、誤解を解くとかするしかない。

しかし、そんないきなり殴らなくたってコミュニケーションをきちんと取るべきだった、そうすれば分かるはずだと言われたって、仮にも挑発されている訳だから、話を聞いている余裕なんかある訳がない。自分が脅かされてますよと、警告アラームが流れちゃってるんだから。

日馬富士も流れちゃってたんだろうな、警告。と思うわけである。

 

ロバート・B・チャルディーニは『影響力の武器-なぜ人は動かされるのか』の著書、「カチッ・サー」のページで、動物行動学者たちによると「多くの種で規則的で盲目的な、機械的な行動パターンが確認されている」と述べている。例えば、七面鳥の母鳥に、ピーピーと泣かない雛鳥とピーピーと泣く天敵であるイタチの剥製を近づける実験がある。すると、母鳥は泣かない雛鳥を虐待したり殺してしまったりするが、ピーピーと泣くイタチには近づくことを許し抱きしめ大切にしたという。ここで分かるのは、母鳥は、ピーピーという鳴き声一点において子育てをする判断をしているのであって、その対象の見た目や内容には関係がないという事である。つまり、「カチッとボタンを押すと、その場面に適したテープが動き出し」「サーッとテープが回って一定の標準的な行動が現れる」のだ。

 

今回の事件はしばしば、日馬富士貴ノ岩、加えて白鵬の関係性から、指導教育における暴力と見なされ語られがちという印象を受ける。平成の今になってまで、体罰でしか解決出来ない昭和脳の典型だとし、道徳の教科書の百番煎じみたいな意見ばかりでうんざりする。

 

私はもっと、根本的な人対人の、もっと言うならば生き物対生き物の、暴力だったと睨んでいる。

 

白石ウィキペディアを見てみると、若者の間でも、つまり"昭和脳"ではなく"平成脳"の間でも、やはりスマホ問題というのは根深い。

こっちが真剣に話していたり、相談しているのに、何がそんなに気になるのかスマホをいじり出すヤツというのはいる。向こうが相談を持ちかけてきたとして、こちらが真剣に聞き、意見を求められたのでこちらが話し出した途端、スマホを見出すヤツというのもいる。また、女うちでは「この前デートしたんだけどその人ずっとスマホ見てたの」と落ち込むヤツも、「スマホ見てるなんて男としてというか人としてサイテー!」と怒り出すヤツもいる。冷静なコチラとしては、「次行く場所の地図を調べていたのではないか」「電車の時間を調べてくれてたのかもしれない」「職場から緊急の連絡があったのかもしれない」と、その子に非がある以外のありとあらゆる可能性を提示することは出来るのだが、当の本人は周りがなんと言おうと「私が取るに足らなかったんだわ…」と落ち込んでしまう訳である。

 

 人が話しているのに、目の前でスマホをいじられて嬉しいな♪と言ってるヤツに私はまず出会ったことがない。

それは、対面した相手の意識が自分ではない何かに向けられていると感じた瞬間、自分は尊重されていないという不安感が煽られるからである。

そもそも挑発行為は、コイツなら問題ないと思うから取る行動であるし、それを受け入れ反撃するのは、自分の強さや、尊重されるべきだとか、威厳など、正当性を持っているとか思うからである。

だから、貴ノ岩に至っては、挑発行為をしたらまんまと反撃を食らっちゃったわけであるし、日馬富士はその挑発にまんまと乗せられてしまったわけである。

 

ただ、日馬富士にも大人気(おとなげ)の無さはある。それは、何も暴力を奮ったその事自体ではない。自分の思うようにいかない人間を自分の思うようにしないと気が済まないという、自分と他者との境界線の線引きが出来ていなかった事による。まるで、思うように積み上がらない積み木を「んんんあーー!」と床に叩きつける赤ん坊のような、そんな幼稚さが垣間見える。

 

私は、ある関係性の中で起こった出来事には両者共に少なからずの責任が発生するものだと考えている。(しかし例えば、拉致レイプ等はこれに当てはまらない。これには因果はあっても両者に関係性はないから)

つまり、この事件にも、被害者・加害者というラベリングがされた所で、両者の本質的な責任はフィフティフィフティなのである。

しかしこれは、暴力という目先のわかりやすい出来事だけを追っていたのでは、到底解明出来っこないのである。

 

 

 

 

 

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肯定される暴力

 

ある日、一人暮らしのアパートに帰ってくると、鍵が開いていた。

「あれ?閉めたはずだけど…閉め忘れたかな?」と思い部屋に入ると、見知らぬ人間が部屋を漁っている。

空き巣だ。

私に気づいた犯人は警察に通報されるのを恐れ、殴り掛かってくる。私はそいつの頭を掴んで抵抗したいと思う。が、ここでよぎる。

 

「どんな理由でも暴力はダメ」

「手を出した時点で、犯人と同じレベルに人間が下がる」

 

私は殴られ続け、手持ちの金銭も全て失う。

ギリギリで駆けつけた警察が、拡声器を手に犯人の前に立ちはだかる。

あぁ助かった。

警察は犯人に告げる。

「止まりなさい!」

「盗みも暴力もいけない事です!」

私は警察に訴える。「そいつを取っ捕まえてください!」

警察は拡声器を下ろし、びっくりした面持ちで私に言う。

「それはできません。暴力はいかなる理由であってもいけない事なので。今ここで捕らえる為には犯人を押し倒す必要がありますが、その場合犯人が負傷する恐れもありますし、無傷だったとしてもそれは立派な暴力になってしまいます。相手は人間です。話せば分かるはーーー」

そうこうしているうちに、犯人は警察の横を走り抜けていく。

警察は「止まりなさい!」を繰り返す。

遠くなって行く犯人の後ろ姿…

力つき横たわる私、と現実の私「まじで?しんどい」

 

あまりにも世の中が「どんな理由でも暴力はダメ」だと言うもんだから、私も「どんな理由でも暴力はダメ」という設定でロールプレイングしてみた。独りでやった割にはなかなか迫真の演技だったんじゃないか。

………死んでたらどうするつもりなんだ。

 

 

少し前にツイッターで話題になっていたが、スーパーマーケットで老人に痴漢された女子高生が、犯人に「死ねよジジィ!」と回し蹴りを食らわし、犯人は現行犯逮捕される、ということがあったらしい。よくやった、と女子高生を賞賛する声もあったが、同量に、彼女を批判する声もあり、少々議論が巻き起こされていた。批判する方の言い分は、老人なのに倒れて本当に死んだらどうするんだ、暴力で片を付けなくてもよかったはずだ、ということらしい。こっちのセリフだ、って感じだろうな、その子。

 

暴力といっても、いくつか種類がある。

冒頭のあの素晴らしいロールプレイングを読んで、いやいやそれは極論にすぎない、いかなる暴力つったって、時と場合によるでしょう、と恐らく誰かしらが思ったのが証明しているように、同じ暴力行為でも、その文脈によって変わってくるのだ。

 

ヴォルター・ベンヤミンは『暴力批判論』の中で、「神話的暴力」と「神的暴力」について述べている。「神話的暴力」には「法措定的暴力」と「法維持的暴力」があるとしているが、例えば警察が施行しているのが「法維持的暴力」でろう。これは秩序を守るためなどに使われる。一方痴漢を撃退した彼女のふるった暴力は、「神的暴力」のほうである。これは、やむにやまれぬ暴力だ。内部から湧き上がるもので、冒頭で私が使いたかった暴力でもある。

 

肯定される暴力がある。これは紛れもない事実である。

 

先日述べたアンパンマンも(→ http://shiraishimaasa.hatenablog.com/entry/2017/11/24/154553  )、アメコミのヒーローもスターウォーズもそれを描いているし、私たちの方も、これは一見暴力であるが許される、必要な暴力なのだと言う前提で受け入れている。

 

だから、暴力を一緒くたにまとめて何が何でもダメだと言ってしまうのはおかしい。

 

 

しかし、その線引きと言うのもまた難しい。

例えば、今ある「法維持的暴力」から自由の為に「神的暴力」で立ち上がり、「法措定的暴力」で戦って自由を勝ち取ったとして、今度はこっちが「法維持的暴力」を施行する番になる。この「法維持的暴力」がなければ自由を勝ち取った我々の秩序は保たれないから、厳しく施行していかなければならない。しかし、その限度が度を超す危険性が全くないわけではない。

それを描いているのが、『時計仕掛けのオレンジ』であろう。私は原作は読んでいないので映画での話になるが、社会が不良少年である主人公アレックスを更生させようとする仕打ちは、アレックスと同等かそれ以上に過激なのだ。




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犯罪を減らす為にはどうするのか、防犯に力を入れるため一般市民を監視するという暴力を使うのか、再犯を防ぐため罪を重くするという暴力を振るうのか、それとも北欧みたいに更生に力を入れるのか。いいやいっそのこと、犯罪者に電流のながれるチップでも埋め込んで、また罪を犯しそうになったらビリビリッとやってしまおうとかいう暴力を使うのか。

 

暴力は全て反対。というのは恐らく、手っ取り早いのだろう。とても簡単で楽なのだ。一見いいことを言っているようで、ある意味考えることを放棄しているとも言える。

果たしてそれでいいのか。それはそれで危険ではいやしないか。それとも私が考える快感の為に考えたいだけの話なのか。

いいや、違う。私たちは、暴力の上に成り立っていることを認めなくてはいけない。そして暴力を目の当たりにした時、その種類を極める目を持っていないといけないのである。

 

 

 

 

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